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2008年12月

2008/12/31

2008年と2009年の狭間で

年の瀬に私事で申し訳ないのですが、2008年はいろいろなことを経験した1年でした。哀しいこと、嬉しいこと、辛いこと、気がかりなことなど、本当にいろいろあったのです。しかもそれらが次々と恐ろしい形相で僕に迫ってきては、まるで何事もなかったように涼しい顔をして通り過ぎていきました。ドラマチックとさえいえる展開に当事者であるはずの僕自身がついていけてないような気さえします。自分が主役のドラマでも観ているような、不思議な感覚なんですね。その分2009年は過去1年に起こった“事件”が“現実”となって、僕に迫ってくるような気がします。上手に折り合いをつけて付き合えるのか否か不安ではありますが、今から心配してもしょうがないですね。

今日は、忙しそうな2009年に想いを巡らせながら大好きなバロック音楽を自分自身にリクエストしていこうと思います。皆さんもこの1年を振り返り、そして2009年の自分を予測しながらお付き合いください。

2008/12/30

今年の名作探訪を振り返ってみると~

午前中に電車に乗っていたのですが、既に赤い顔をして寝ている人がいて、その隣にはキャリーケースとボストンバッグを同時に持っている女性が座っていたりと、すっかり年末ムードですね。今日は2008年の美術展から印象に残った企画展をいくつかご紹介します。一番の収穫はイタリア、ヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノの名画をたくさん鑑賞できたこと。そしてフェルメールの絵を一度に何枚も眺められるという僥倖にめぐり合えたことです。その他にもたくさんの感動があったのですが、中でも滞在時間が長かった企画展は以下の通りです。

○ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情(国立西洋美術館)

○ティツィアーノ・うさぎの聖母(ルーヴル-DNP ミュージアムラボ)

モディリアーニ展(国立新美術館)

カルロ・ザウリ展 イタリア現代陶芸の巨匠(国立近代美術館)

また、小さなギャラリーに出かけて今年初めて名前を覚えたアーティストもたくさんいました。そんな人々との新鮮な出会いについても少しお話するつもりです。

2008/12/29

2008年写真展(私的)ベスト3

週末に読破した中野京子さんの著作『怖い絵』『怖い絵2』(共に朝日出版社)は本当に面白い!名作に潜む“怖い事実”を分かりやすく、かつ刺激的に紹介してくれる美術案内書です。正月休みの読書、ミステリーに飽きたらご一読をお勧めします。(クラシック音楽にもこんな面白い案内書があればいいのに?)この本については来週ご紹介します。

今日は2008年に僕が足を運んだ写真展から印象に残った写真家、写真のことなど話してみようと思います。仕事柄、写真展には頻繁に行くのですが記憶に残るものは何故だか少ないもの(それでいいのかも知れない)。僕の場合、飽きっぽいという性格も災いしてか箱の大きな美術館で100枚以上もの写真を並べられると、それだけで芋粥状態になってしまいます。結果として「観に来てよかったなぁ」と思うのは比較的小さな美術館やギャラリー(無料のことがほとんど)で開催された写真展ばかりです。そんな中個人的ベスト3を紹介しておきます(開催日順)。

○広瀬美紀写真展 レクイエム 東京大空襲(銀座ニコンサロン 3月5日~18日)

○マリオ・ジャコメッリ展(東京都写真美術館  3月15日~5月6日)

○オスカー・バルナック賞2007(ライカ銀座店 7月25日~11月2日)

2008/12/26

21世紀のウォーホル? 鬼才ヴィック・ムニーズ

砂糖、インク、紐、ダイヤモンド、コイン、ピグメント、チョコレート、ジャム、ピーナッツバター、ケチャップ、色見本、枯葉、金属片など、およそアートとは縁の無さそうな素材を“絵の具代わり”にして、不思議な作品を制作する芸術家、ヴィック・ムニーズの企画展「ビューティフル・アース」が現在、トーキョーワンダーサイト渋谷で開催中です。

ムニーズは1961年、サンパウロ生まれ。89年頃から国際的に活躍しはじめ、2001年にヴェネチア・ビエンナーレのブラジル代表に選ばれると、彼のアート市場における価値は2倍にもなりニュースになりました。アンディ・ウォーホルを尊敬し、その後継者であるという強い自負をもつムニーズ。

現在開催中の企画展の中心となるのは2008年の新作シリーズ「ピクチャー・オブ・ガベージ」。ガベージとは英語で台所のくずや残飯、廃物、くだらないものという意味。この一連の作品は、リオデジャネイロにある南米最大規模のゴミ処理場で清掃・廃棄物収集などに従事する人々とのコラボレーションによって制作され、彼らは、作品のモデルをつとめ、バスケットボールコート2面分の大きさで描かれ撮影されました。

今日はこの企画展の他、週末お勧めのアートイベントをいくつかご紹介します。

2008/12/25

クリスマスの起源は酒池肉林?

皆さんはどんなイヴを過ごされましたか?僕は風邪気味の為、10時に寝てしまいました。街は賑やかだったのでしょうね。「クリスマスは家族と静かに過ごすもの、外で大騒ぎをするなんて邪道!」などと言われることも多いようですが、クリスマスの起源を辿るとどうやらそうでもなくて、意外とみんな浮かれてはしゃいでいたようなのです。

クリスマスの原型になったのは古代ローマ時代に行われていた農業神に感謝するためのサトゥルナリアという宗教儀式でした。この行事は神聖であると同時に庶民が日頃の憂さを発散させるお祭りの場でもあったのです。サトゥルナリアは毎年12月の後半に数日間開催されていたのですが(開催日、期間については諸説あるよう)、人々は飲めや歌えの賑やかなパーティに明け暮れていたそう。そして人形や書物などを贈り合っていたのですが、これがクリスマスプレゼントの起源となったとされています。この時期だけは奴隷も解放されて祭りを楽しみました。普段は禁止されていたギャンブルも認められていたそうです。

そしてこのサトゥルナリアを大いに利用して点数稼ぎをしたのが皇帝など権力者たちでした。彼らはこの時期、大規模なイベントを開催して君主の寛容さをアピールしたのです(忘年会ですね)。

大きな競技場に人を集め、パーティを開始するのですが、まずは人々の頭の上からお菓子や果物をばらまいて驚かせ、次には大勢の美女たちによるダンスなどを披露して喜ばせ、その間に御馳走やワインなどを配って回りました。くじ引きのような余興もあり、金・銀、農地や家、あるいは奴隷なども商品として用意されていました。支配者にとっては自分の財力や徳をアピールするとともに、市民のストレスを発散させる政治的目論見もあったようです。このお祭りに目をつけたのが、当時布教活動に励んでいたキリスト教。市民の心をとらえるため、利用しようとしたのです。

そこで教会は冬至が終わって太陽が蘇る変わり目の1225日をキリストの降誕祭と決定し、サトゥルナリアの祭りの習慣と抱き合わせて、この日を祝いの日としたことから、今日に続くクリスマスが誕生しました。

2008/12/24

ハプスブルグ家“最後の”花、エリザベートの悲劇

先日、番組のスタッフと痛飲していたとき「ハプスブルグ家の歴史をある程度理解していないとクラシック音楽を語れないのではないか?」という話題でしばし盛り上がりました。他の話はまったく覚えていないけど、そこだけ妙に記憶に残っています。で、さっそく読んでみたのが今日ご紹介する1冊『名画で読み解く ハプスブルグ家12の物語』(中野京子=著 光文社新書)です。

650年に亘ってヨーロッパ、そして世界を支配したハプスブルグ家。「戦争は人に任せ、結婚と子作り」に励んだ歴代の当主たち、あるいは嫁いだ姫君たちを描いた肖像画の中から12枚を選び、その絵が描かれた歴史的背景や人物像を分かりやすく解説してくれるハプスブルグ家初心者にはうってつけの内容です。著者、中野京子さんのブログ「花つむひとの部屋」も面白いですよ。今日はこの本を紹介しながら、登場人物の一人であり今日1224日に生まれたエリザベート皇后の悲劇について話をしようと思います。ハプスブルグ家の“実質上”最後の皇帝、フランツ・ヨーゼフに嫁いだ彼女は没落していくこの名門一族が最後に迎え入れた美しくもやっかいな花であり、暗殺されるという悲劇的な最期を迎えました。しかも暗殺者は、特に彼女に恨みがあったわけではありません。身長170センチ、体重50キロ、ウエスト50センチとスーパーモデル並みの体系を維持した彼女。真面目なだけが取り柄のダンナさんをほっぽらかして、旅を続けた彼女はどんな音楽に癒されたのでしょうか?

2008/12/23

シャンパンの父、ドン・ピエール・ペリニヨン

クリスマスムードの休日、今日はシャンパンの話をしようと思います。

シャンパンの代名詞といえば、何と言ってもドン・ペリニヨンですよね。今日僕らが飲んでいるシャンパンの発明者にして、シャンパーニュ地方の守護聖人でもあるドン・ペリニヨンは1639年生まれ。19歳でヴェネディクト派の修道士となった彼は、29歳でシャンパーニュ地方にあるオーヴィレール修道院の酒庫係りに任命され、1715年に死ぬまで47年間その仕事を務めました。生まれながらにして鋭い味覚と記憶力に恵まれ、歳を取ってから視覚を失い、目が見えなくなるとその感覚に益々磨きがかかりました(目は見えていたという説もあります)。彼が、ワイン、およびシャンパン作りの歴史に貢献した点は3つあります。

第一に白ワインを今日のように澄んだ、クリアな色にしたこと。それまでの白ワインは、少しピンクがかっていて、どちらかと言えば今のロゼワインに近かったようです。

第二にブレンド。彼は異なった畑のブドウを混ぜ合わせることによって、ワインの品質と味を優れたものにし、なおかつ毎年レベルの高いワインを作れるようにしました。ブレンド技術を確立したのです。

3つめの功績はコルクを使用したこと。それまでは油を染み込ませた布を使ってボトルに栓をしていたのですが、たまたまスペインから来ていた修道士が水筒にコルクの栓をしているのを見て、コルクでボトルを塞ぐことを思いついたと言われています。

でも彼の最大の功績は、シャンパーニュ地方に、一大産業をもたらしたことです。当時ライバルだったブルゴーニュ地方に大きく出遅れていたシャンパーニュ。もし、ドン・ペリニヨンがいなければ、この地でワイン作りが続いていなかったかもしれませんし、シャンパンが世界的に広まることも無かったかもしれません。今日、僕らがお祝いの日にこの高貴な泡を飲めるのは何と言ってもドン・ペリニヨンのお陰なのです。なので、ドン・ペリ、ドン・ペリと略称で呼ぶのは辞めましょう。

2008/12/22

エリック・ロメール,“最後の”新作を語る

エリック・ロメールといえばヌーヴェル・ヴァーグの巨匠ですよね。ゴダールやトリュフォー、リヴェットらと共にフランス、そして世界の映画界を牽引し続けてきた映画監督です。でも、名前が有名な割に(少なくとも日本では)作品名はあまり知られていない不思議な存在です。

ロメールは1920年生まれですから、来年は89歳。もうとっくに引退して、田舎で余生を楽しんでいるのかと想像していたのですが、とんでもありません。2009年には日本で新作『我が至上の愛 〜アストレとセラドン〜 』が公開されるのです。ちなみにトリュフォーは他界しましたが、ゴダールもリヴェットもまだまだ現役。ヌーヴェル・ヴァーグは息が長いです。

そして、ロメール監督が新作映画と自身の映画史を振り返るような内容のインタビューが現在発売中の『婦人公論』(中央公論新社)に掲載されています。「これが最後の作品になる覚悟はできている」という気になるタイトルがついたインタビューは2ページほどの短い(活字部分)ものですが、映画監督になった経緯から新作の苦労話までコンパクトにまとめられていて、この記事をきっかけにロメールファンになる人もいるのではないでしょうか。小説家か戯曲作家になりたかったのに映画を撮るようになった経緯から新作映画『我が至上の愛 〜アストレとセラドン〜』についてなど、この記事は意外と面白いですよ。

今日はこの記事について少しご紹介しながら、巨匠の新作について話をしたいと思います。ヒロインがかなり美しいですよ。

2008/12/19

ドゥダメルが選んだ2曲を聴きながら

昨夜はグスターボ・ドゥダメルと彼の率いるシモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラのコンサートに行ってきました。演奏されたのは19世紀の始めと終わりにウィーンで誕生した2曲。ダブルで重かったですよ~。1曲目はベートーヴェンの「ピアノ、ヴァイオリンとチェロのための三重協奏曲」(略して三重奏曲)。ピアノにアルゲリッチ、カプソン兄弟がヴァイオリンとチェロを奏でるという豪華な組み合わせ。この曲はベートーヴェンが1803年から1804年にかけて作曲した楽曲であり、ヴァイオリンソナタ第9番『クロイツェル』、ピアノソナタ第21番『ワルトシュタイン』、交響曲第3番『英雄』などの名曲とほぼ同じ時期に作られています。ベートーヴェンらしく様式美をきっちり守って、かっちり構築された曲。でも、「ちょっと間延びした曲だなぁ」というのが正直な感想(演奏のことではなく、曲そのもののことです)。一流のシェフが最高の食材を揃えてパスタを作ろうとした。ソースは完璧に出来上がったけど、つい油断してパスタの茹で時間を間違え、アルデンテに出来なかった。でも客が腹を空かせているので、恐る恐るテーブルに出した。次の肉料理で名誉挽回!そんな感じの曲でした。

2曲目はマーラーの「交響曲第1番」。交響曲としては1896年に初演されたこの曲は、作曲家の試行錯誤の甲斐もなく、評判はよくなかったようで当初は「適切な構築性を欠いている」と批判されたようです。

そうなんです、この2曲を聴いている間、ずっと考えていたのはこの構築性、あるいは様式美という言葉なのです。ベートーヴェンはそこにこだわり過ぎ、マーラーはそれを(あえて)壊そうとしたのだろうか。でもどちらも大成功とはいいがたいのではないだろうか。マーラーはそのことを承知で、サービスとして第二楽章に、あの親しみやすいスケルツォを用意したのではないか?でもドゥダメルは初めての日本で何故この2曲を選んだのだろうか?そんなことを考えながらドゥダメルの小さくて細い背中を見つめていました。

2008/12/18

ストラディヴァリウスに抱かれて死んだ男

ストラディヴァリウス(略してストラド)といえば、誰もが知っているヴァイオリンの名器ですが、その生みの親である楽器製作者アントニオ・ストラディヴァリが1737年の1218日に亡くなっています。93歳まで長生きし、亡くなる直前まで楽器を作り続けた彼が残したヴァイオリンは1,200本あるといわれ、そのうち約600本の存在が確認されているそうです。

この600本を巡り様々なドラマが(時には国家をも巻き込んで)繰り広げられたのですが、なかでも人生をストラディヴァリウスに捧げた、と言っても過言でないのが19世紀に生きたルイージ・タリシオンというイタリア人ではないでしょうか。

1795年頃、ミラノ近郊の村で貧しい農民の子供として生まれたルイージ・タリシオン。彼は若いころ大工としての訓練を受けていたため、木や楽器については豊富な知識を持っていました。ヴァイオリンの演奏を趣味にしていた彼は、貴重なヴァイオリン、なかでもストラディヴァリウスを集めたいという思いが強くなり、20代の頃、イタリア中を旅してストラディヴァリウスを手に入れようとします。

土地の人々と親しくなって情報を入手し、高価なヴァイオリンをもっている人がいればすぐに会いに行きました。また修道院や貴族の館に行って、ヴァイオリンの修理をするうちにヴァイオリンの目利き、鑑定家となった彼は、価値のわからない持ち主から高価なヴァイオリンを安く買い集め、ときには古ぼけた(でも貴重な)ヴァイオリンを手に入れるため、自分が持っている新品と交換したりもしたそうです。時には詐欺まがいの手口も使ったそうですが、彼の審美眼は確かで、農家の壁に分解されたストラディヴァリウスの板の一部が立て掛けてあっただけで即座に見抜けたといいます。

そうして集めたヴァイオリンをもとに、楽器の販売を商売にするようになると彼はひとかどの財産を手にいれるようになりました。しかし、彼の人生の目標はただひとつ。ストラディヴァリウスを収集することだけ。結婚もせず、肉も食わず、粗末な衣をまとって、アパートの屋根裏に住み、倹約に倹約を重ねてお金を貯めてはストラディヴァリウスを集め続けたのです。手に入れたストラディヴァリウスを売ったり貸したりすれば贅沢な暮らしもできたのに、そんなことには興味なし。屋根裏部屋で愛しいストラディヴァリウスを眺めてはうっとりして暮らしていたのです。オタクですね。

ある日、タリシオンが数日間顔を見せないことを心配した大家さんが部屋に入ると、彼はストラディヴァリウスを2本胸に抱えたまま死んでいました。異臭漂う部屋には足の踏み場もないほどの楽器が散乱していたそうです。幸せな人生、恵まれた最後かもしれません。でも彼が残したストラディヴァリウスで大儲けした人がいるんですけどね。

2008/12/17

アメリカの国民的画家、ワイエス

アメリカの原風景を描く画家、アンドリュー・ワイエスの作品展『アメリカを描ききる』が23日(火祝)まで渋谷、文化村で開催されています。画家として成功した後も都会の喧騒を嫌い、故郷のペンシルベニア州チャッズ・フォードと別荘がある北部メイン州の海辺で静かな生活を送り、91歳になる今も創作を続けているワイエス。

彼は、水彩、ドライブラッシュ、テンペラなど多様な絵画技法を駆使する画家であり、対象への距離感やその時々の感情の高ぶりによって筆を使い分けています。今日はアメリカの国民的画家、ワイエスの話をしながら田園風景が思い浮かぶような曲を多めにオンエアしようと思います。

2008/12/16

ベートーヴェンを聴けなかった姉とパトロンになった弟

1770年の今日1216日はベートーヴェンの誕生日(洗礼を受けたのは17日)。後の楽聖がまだお母さんのお腹の中で眠っていたこの年の春、15歳のマリー・アントワネットがフランスに嫁いでいます。彼女の母親はオーストリア・ハプスブルグ家最後の君主であり、女帝と呼ばれたマリア・テレジア。ハプスブルグ家はその家訓が「戦争は人に任せて、とにかく結婚して子孫を増やしなさい」であるように、政略結婚によって緩やかな血縁関係を世界中に築き上げ、繁栄を謳歌してきた一族です。その際、高貴な血を汚してはならないと、近親結婚を繰り返したため、若くして死ぬ子供や、何らかの欠陥をもって生まれてくる子供が多かったのです。

ただし、マリア・テレジア自身は当時の王族としては奇跡ともいえる恋愛結婚をした人で、夫との間に男子5人、女子11人と計16人の子供をさずかりました(うち6人が幼くして亡くなっています)。しかし自分は恋愛結婚したにもかかわらず、マリア・テレジアは娘たちを政略結婚の道具と考えました。当時のハプスブルグ家は周辺諸国との戦争が続いていて、少しでも同盟国を増やす必要があったのです。その政略結婚のひとつが末娘のアントワネットと、のちのルイ16世との結婚だったのです。

アントワネットは末っ子。姉たちが次々と嫁いでいっても親元に最後まで残るというのが普通ですよね(日本の時代劇を思い出してください)。ただ、病弱な姉がいたり、天然痘にかかってしまって嫁に行けなくなる姉がいるなどして、どんどん順番が降りてきたんですね。そしての4つ年上のお姉さん(ヨーゼファ 9女)がナポリ王と結婚する直前に16歳で亡くなったため、すぐ上のお姉さん(カロリーネ 10女)が代わりにナポリ王に嫁ぎます。彼女は18人の子供を産み62歳まで生きました。そしてとうとう末娘のアントワネットも政略結婚に使われたのです。

もし、9女ヨーゼファがナポリ王に嫁いでいたら、フランスへ行ったのはアントワネットではなくすぐ上の姉カロリーネだったわけで、テレジアが最も期待をしていた才女のカロリーネがフランスに嫁いでいれば、フランス革命の流れは大きく変わっていたかもしれないと言われています。そして何よりアントワネットが39歳でギロチンにかけられることもなかったのです。

ちなみにアントワネットの1歳下の弟、末っ子のマクシミリアンは後にベートーヴェンのパトロンとなって曲を献呈されています。ベートーヴェンを聴けなかった姉と後援した弟。歴史は不思議ですね。

2008/12/15

『悼む人』を読んで思うこと

天童荒太さんの新刊『悼む人』(文藝春秋)をこの週末に読みました。以前に読んだ『家族狩り』『永遠の仔』に比べると、衝撃的な事件やドキっとするシーンが無く淡々と進んでいく物語りでした。でも構想以来7年以上の歳月をかけて取材、執筆を行い、時には300枚ほど書いた原稿を破棄してやり直すなど、試行錯誤のなかから育てあげた労作であるだけに、とても素晴らしい作品に仕上がっています。読み終えたいまも、主人公の静人が今日もどこかで見知らぬ人の死を『悼む』旅を続けているような気がすから不思議です。

僕は13年ほど前、天童さんにインタビューしたことがあります。『家族狩り』という当時出版されたばかりの新刊の著者インタビューでした。『家族狩り』は家族間の残忍な殺人事件を扱った小説で確か、子供が親を虐殺するシーンがあったと思います。取材した当時、天童さんにはお子さんが生まれたばかりだったのですが(奥さんが妊娠中だったかもしれない)、そんな状況で親殺しの小説を執筆できるなんて、この人は相当な覚悟で小説を書いている、家族と向き合っている人なんだぁ~、と感じたことを今でもよく覚えています。

今日は『悼む人』の話をしてみたいと思います。この小説をもう読まれた方、あるいはこれから読む方、あなたは静人の行為をどう思いましたか?

2008/12/12

還ってきたモナ・リザは本当に本物なのか?

フェルメール展もいよいよ14日で終了ですね。8月2日に開催されて以来入場者はすでに80万人を越えているそうです。100万人、突破するのでしょうか? 僕が知っている限り、これまで日本で開催された美術展で最も入場者が多かったのは1974年に開催された『モナ・リザ』展だと思います。上野の国立博物館で約2ヶ月に亘って開催されたこの展覧会に訪れた人は150万人を突破、1日平均3万人です。

ところで、世紀の傑作名画モナ・リザは1911年に盗難にあっています。無事発見され犯人が逮捕されたのが1913年の1212日でした。もっとも捕まったのは勘違いな愛国心と小銭欲しさから犯行に及んだイタリア人で、黒幕はアルゼンチン生まれで、贋作の美術品を売りさばくことを商売にしていた男でした。では、この抜け目ない男はどんな目的でモナ・リザ盗難を計画したのか。今日はそんな話をしてみたいと思います。今、世界には6枚のモナ・リザが存在しているそうですよ。

2008/12/11

森山大道さんが切り撮った、静かなるスタジアム

銀座4丁目の交差点に建つ丸いビルといえば三愛。正式名称は三愛ドリームセンターというそうですが、正直僕はこれまで素通りするだけでビルの中に入ったことはありませんでした。男性には縁の無い場所、というイメージはありますよね。でもこのビルのなかに10月、リコーが運営する写真ギャラリー「リングキューブ」がオープンしていたのです。

そして現在、日本を代表する写真家のひとりである森山大道さんがスポーツの聖地を巡って撮影したモノクロ写真を展示する「森山大道写真展 S」が開催中です。展示されているのは国立競技場、後楽園ホール、阪神甲子園球場、真駒内アイスアリーナ、大倉山ジャンプ場、富士スピードウエイ、東京競馬場などなど、いずれも数々のドラマを生んだ“スタジアム”。でもやっぱり森山さん。スポーツ雑誌や新聞でよく目にするような写真は一枚もありません。

今日はまた谷中にあるギャラリー「スカイ・ザ・バスハウス」で開催されている写真展についてもお話してみたいと思います。銀座と谷中、それぞれの場所で発見できる現代日本の風景は、僕らが普段気づいていない瞬間、あるいは時間の流れがあることを改めて教えてくれます。

2008/12/10

フェルメールが“真似た”2人の画家

いよいよ14日(日)までの開催となった『フェルメール展』。多くの方がご覧になったと思いますが、フェルメール以外の画家の作品も楽しめましたか?フェルメールの作品でお腹一杯になって、その後に展示されている絵の前を通り過ぎた人も多いのではないでしょうか。あまり話題にはなっていませんが、フェルメールと同じ時代を生きたオランダの画家たちの秀作がたくさん展示されているのです。なかでもカレル・ファブリティウスとピーテル・デ・ホーホの2人はフェルメールに大きな影響を与えた画家。彼らがいなかったらフェルメールという画家は登場しなかったのかも知れません。ということで、今日はこの2人を中心にオランダ絵画の魅力についてお話しようと思います。

2008/12/09

開高健さんの命日にご紹介する傑作ノンフィクション『最後の冒険家』

1989年の今日、開高健さんが亡くなっています。享年58歳。若すぎます。あの頃、僕が働いていた出版社には「開高ルーム」といって開高さんがたまに訪ねてくる部屋があり、その部屋は僕が座っていた机のすぐ後ろに位置していました。開高さんはたまにその部屋を訪れてきたのですが、すると出版社や新聞社、あるいは企業や代理店の、いかにも偉そうな人たちが次々と開高詣にやってきました。もっとも当時、開高さんの身体はすでに病に蝕まれていたようで、部屋はほとんど開かずの扉となっていたのですが、それでもたまに扉が開くことがあるとその中からあの独特な甲高い声が響いてきて「この人本当に病気なんだろうか?」と思ったことを今でもよく覚えています。

「森羅万象に多情多恨たれ」

この言葉をモットーとしていた開高さんは、音楽にも造詣が深く、モーツァルト、特に『交響曲第41番』、とりわけブルーノ・ワルターとクーベリック指揮の演奏が好きだったよう。病をおしてアラスカへ釣りに行ったときに『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』に癒されていたという文章を読んだこともあります。また海外に釣りへ出かけるときにはいつもワーグナーの『ワルキューレ』のテープを持参したそうで、特に第三幕の前奏曲が好きで、開高さんはこの勇ましい曲を「音楽にしたユンケル皇帝液」と形容していました。

開高さんの命日である今日は、今年度の開高健ノンフィクション大賞を受賞した新刊『最後の冒険家』(石川直樹=著 集英社)をご紹介してみたいと思います。 

今年2月1日、気球による単独太平洋横断に挑戦し消息を絶ってしまった冒険家の神田道夫さん。石川直樹さんは2004年、神田さんと気球に乗って上空10,000メートルの世界を経験し、そればかりか、生死の間をさ迷ったことがあります。本書はその旅と神田さんの半生を題材に描いた、臨場感溢れるノンフィクション。

皆さん、ぜひ一度この本を書店で手に取り表紙の写真を確かめてみてください。不法投棄でもされたかのような大きな鉄の箱が、岩だらけの海岸に打ち捨てられている写真が使われています。その正体はビルの屋上でよくみかける貯水タンク。このタンクをミシンで縫い合わせた手作りの気球に吊り下げて神田さんと石川さんは太平洋を横断しようとしたのです。そしてこのタンクは数奇な運命を辿ることになるのですが、その件はトークをお楽しみに。

2008/12/08

『光の教会 安藤忠雄の現場』

この週末は久しぶりに外出する予定が無かったので読書に没頭。『光の教会 安藤忠雄の現場』(平松剛=著 建築資料研究所)と『最後の冒険家』(石川直樹=著 集英社)の2冊を読み終えました。2冊とも読み出したら止まらない素敵な本ですが、今日は『光の教会 安藤忠雄の現場』をご紹介してみたいと思います。予算も無く、厳しい条件が重なるなかで建てられた『光の教会』は安藤忠雄さんの代表作のひとつ。「この教会は大げさにいえば、彼の社会に対する挑戦であり、批評でもあった」と著者は本の中で書き記しているのですが、この本はバブルの真っ最中だった80年代後半、日本全土に建築狂想曲が鳴り響いていた時期に、“建築とは何か”“人が集う場所とはどうあるべきか”にこだわった建築家と、彼の意思に導かれ赤字覚悟で教会建築に携わった人々を追ったノンフィクションです。この本を読むと、大阪府茨木市へ行って教会を実際に見てみたいという思いを強く感じるはずです。なお、現在、乃木坂の『ギャラリー間』で開催されている安藤忠雄さんの企画展でもこの光の教会の詳細を写真などで知ることができます。

著者の平松剛さんは最新作『磯崎新の『都庁』』では丹下健三さんと磯崎新さんを題材にしています。丹下、磯崎、安藤と続いて次は誰を描くのでしょうか?個人的にはほとんどメディアに登場しない谷口吉生さんを取り上げて欲しいなと思っています。

昨夜は里芋とキノコのリゾットを作るつもりでいたのに何故かさつま芋を買ってしまった。しょうがないので、さつま芋とレモンスライスの煮物にしました。「さつま芋とレモン?」意外な組み合わせですが、意外と美味しいのです。そしてこの2品は栄養面で相性がいいそうなんですね。もちろん、晩酌は芋焼酎で。

2008/12/05

酒が飲める、飲める、呑めるぞ!

1933年の今日、アメリカ合衆国憲法修正第21条が施行されました。と書いて理解できる人はよほどのアメリカ通か、政治史に詳しい方、あるいはお酒好きです。当然、僕の場合は3番目。そうです、今日はアメリカで禁酒法が撤廃され人々が堂々と酒場に通えるようになった記念すべき日なのです。

後に“高貴なる実験(ノーブル・エクスペリメント)”と皮肉られた禁酒法が成立したのは1919年。以後1933年に撤廃されるまでの間、アメリカのウエット派(酒好き)は非常に肩身の狭い思いをしたのですが、もちろんおとなしく自宅に帰っていたわけではありません(自宅での飲酒までは禁止されていなかった)。彼らの心の拠り所だったのが、スピーク・イージーと呼ばれたもぐりの酒場です。「こっそりと酒を注文する」「ひそひそ話をする」という意味のこの非合法酒場は洋服店、床屋さん、薬局、さらには葬儀会社などの奥の一室にあり、覗き穴つきの地下室で営業していました。今ではニューヨークの高級レストラン・バーとして有名な「21クラブ」も、もともとはスピーク・イージーの超高級店でした。

禁酒法時代後半の1929年、ニューヨークには約32000軒のスピーク・イージーがあったといわれています。そしてこのもぐり酒場で莫大な利益をあげたのが、アル・カポネに代表されるギャングでした。

この禁酒法の時代に密造酒、粗悪な酒を美味しく飲むために改良され、ヨーロッパに普及されていったのがカクテルなんですね。モーツァルトの命日でもある今日は、カクテルの話でもしながら酒好きだった天才の曲を多めにオンエアしたいと思います。

2008/12/04

カラヤン写真展、ハンガリー動乱

カラヤンのモノクロ写真14点を展示した写真展が1228日まで『ライカ銀座店』開催されています。タクトを振る恍惚?の表情から自家用ジェット機を覗き込むおどけた姿まで、ファン必見の内容です。音はもちろん、自分が放つオーラにもこだわったカラヤンは写真のアングルにも非常にうるさかったそうですが、その帝王が唯一信頼し、素顔を見せたのが今回、写真を展示しているオーストリア写真界、美術界の重鎮、エリック・レッシングです。

1923年、ウィーンに生まれたレッシングはユダヤ系であったため母親を強制収容所で失うという悲劇を経験します。戦後はAP通信の記者・写真家として勤め、写真家集団マグナムに参加しました。戦後の混乱期のなか、レッシングは常に紛争地帯に駆けつけて、目の前で起こっている事件をフィルムに焼き付け、世界に伝えました。報道カメラマンとしての使命感と気概に満ちた日々を送っていたレッシング。そんな彼が大きな挫折を味わい、写真家としての方向転換を余儀なくされたのが1956年に起きたハンガリー動乱だったのです。17000人もの市民が殺害、処刑され、25万人近くの人々が難民となり国外へ逃亡したこのハンガリー動乱でレッシングは何を感じ、何を諦めたのか。今日はそんな話を少ししたいと思います。

2008/12/03

永井荷風の愛したドビュッシー

1879年の12月3日、作家永井荷風が生まれています。クラシック音楽にも造詣の深かった荷風ですが、特にフランス滞在の経験を元に書かれた短編集『ふらんす物語』(岩波文庫)にはビゼーやプッチーニをはじめ、多くの作曲家の名前が登場しています。そればかりか荷風は本の巻末に付録をつけ西洋音楽、クラシックについて詳しい解説を書いているのです。

「遠く独り、欧米の空の下に彷徨うとき、自分が思想生活の唯一の指導、唯一の慰藉となったものは、宗教よりも、文学よりも、美術よりも、むしろ音楽であった。」(岩波文庫352ページ)

荷風の音楽への強い思いが伝わってくる一文から始まるこの評論のなかで、彼はべートーヴェン以前を音楽上のクラシック、ベートーヴェン後をロマンチックとして時代区分を明確にした上で、ベートーヴェン以降の作曲家について非常に詳しく、かつ的確に論評しています。

特に当時(19071908年)活躍していた2人の作曲家、リヒャルト・シュトラウスとクロード・ドビュッシーを対比させながらの文章は的確であり、なおかつ執筆から100年が過ぎた今でも新鮮さを失っていません。

今日は、永井荷風のドビュッシー論などを紹介しながら、彼が生涯貫いた粋で品のあるライフスタイルについても少しお話してみたいと思います。

2008/12/02

夭折の天才、リパッティ最後の演奏

1950年の12月2日、ピアニスト、ディヌ・リパッティが33歳という若さで亡くなっています。1917年ブカレスト生まれのリパッティは4歳のときに観衆の前でピアノを弾き、11歳でブカレスト音楽院に特別に入学を許可されたほどの神童でした。1933年にはウィーンの国際ピアノコンクールで第2位になりますが、この時審査員の1人だったアルフレート・コルトーがリパッティの第1位を強硬に主張し、審査員を辞任するという事件が起こります。

その後コルトーの勧めもありパリに留学したリパッティはピアノをコルトーに、指揮をシャルル・ミュンシュに、そして作曲をデュカスやナディア・ブーランジェに学びます。特に20世紀の音楽史を語る上で欠かせない存在であるブーランジェは“リパッティの精神的な母”と呼ばれるほど彼に大きな影響を与えました。

経済的にも音楽的にも恵まれた家庭に育ち、才能もあり、その才能を認めてくれる大先輩たちに教えを受ける。音楽家として何もかも与えられていたように思われるリパッティに唯一足りなかったのが、健康でした。彼は子供の頃から身体が弱く、学校に通うことが出来ずに家庭教師について勉強していたのですが、それは白血病(悪性リンパ腫)が原因だったのです。若き天才ピアニストとして注目を集め活躍し始めた20代の中頃からリパッティは原因不明の高熱に悩まされるようになります。高額な薬による治療を行いながら演奏を続ける彼にカラヤン、バックハウス、ヒンデミットストラヴィンスキーなど多くの音楽家が援助を行います。多くの音楽ファンからも治療代が寄付されたそうです。当時リパッティが使用していた薬はコーチゾンという大変高価なもので、1日に50ドルだったそう。1950年当時の大学卒の初任給が5000円くらいだったので、当時の50ドルは相当な金額だったと考えられます

今日は、リパッティの(結果的に)最後となった演奏会を収録したCD「ブサンソン音楽祭における最後のリサイタル」(EMIclassics)から何曲かオンエアして、この夭折の天才を偲んでみたいと思います。このCDは本当に素晴らしいですよ。しかも1,500円!

なおリパッティが亡くなった後、コルトーが若い世代のピアニストについて感想を求められた際「若い世代ではリパッティが天才だった。しかし彼が若くして死んでしまったいまとなっては、私は他に誰をあげてよいのかわからない」と述べたのは有名な話です。

2008/12/01

安藤忠雄さんの長屋が原寸大で体感できます

建築家、安藤忠雄さんの30数年に及ぶ建築活動の足跡を辿る企画展「挑戦―原点から」が、現在、乃木坂にある「ギャラリー・間」で開催されています。初期の作品から完成したばかりの渋谷駅プロジェクト、東京大学の福武ホール、さらには現在アラブやバーレーンなど海外で進行中の大規模プロジェクトまで、安藤さんの過去・現在、そして未来をスケッチ、模型、ドローイング、映像などで紹介してくれる非常に楽しい企画展です。

なかでも今回一番興味深いのは30年ほど前、安藤さんの名前を一躍有名にした個人住宅「住吉の長屋」が原寸大模型で再現されているということ(模型と呼ぶには大きすぎますが)。15坪足らずという狭い敷地に建設されたこの画期的な住宅は、住む人に不便さを強いてまで「安易な便利さより、天を仰いで“風”を感じられる住まいであることを優先した」安藤さんの美学の結晶でもあります。そしてこの住宅は、その後の安藤さんの建築家としての歩みを決定づけた原点ともいえるもの。建築に興味のある方、住宅の新築、建て替えなどを考えている方は、必見です。

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清水清

 テニス専門誌や幻の名雑誌といわれた『バッカス』の編集を経て、『エスクァイア』日本版編集部に。4年間を副編集長、5年間を編集長として在籍し、イタリアのスローフードやバリ、日本のBAR、沖縄、アートなど自分の趣味をそのまま誌面に反映させた特集に従事する。 『エスクァイア』退職後、4ヶ月間の石垣島生活を経て、現在に至る。座右の銘は「漂えど沈まず」。

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