« 2008年9月 | メイン | 2008年11月 »

2008年10月

2008/10/31

フェルメールはビール好き、だったのか?

1632年の今日、画家フェルメールがデルフトで誕生しています。彼が生まれた当時、デルフトはビール醸造が盛んでした。17世紀初頭、デルフトには87箇所のビール醸造所があったという記録も残っています(300という説もあります)。デルフトは小さな街だし、当時の人口は25,000人ほどだったので、まさにビールの街だったと言えます。

小さな通りにも1軒か2軒、あるいはそれ以上の酒場があり、しかもデルフトのビールはアルコール度数が高かったそうです。当然ながらデルフトにはお酒好きが多く、平均すると1人年間250リットルのビールを飲んでいたそうです。大瓶に換算すると400本くらいですが、子供や下戸の人を差し引けばもっと多くなるのではないでしょうか。

酔った勢いでの空元気のことをDutch courage(ダッチ・カレッジ)といいますよね。いくらなんでも言い過ぎで酷い表現ですが、まんざら根拠が無い訳ではないのかもしれませんね。当時、デルフトに限らずオランダは国に勢いがあったこともあり、威勢よく朝からビールを飲んでいた人が多かったようで、そうなると当然喧嘩も絶えなかったよう。“オランダ人100人にナイフ100本”という物騒な諺もありました。

ところで、フェルメールの父親は居酒屋兼宿屋を営んでいたので、フェルメールも幼い頃からビールが大好きだったのかも知れません。、ビールの街デルフトをこよなく愛した人ですから。

2008/10/30

イタリア貴族の「たしなみ」を知る講座

以前この番組でも紹介しましたが、今話題の新書『イタリア貴族養成講座 本物のセレブリティとは何か』(集英社新書)の著者、カウンターテナーで舞台演出家の彌勒忠史(みろくただし)さんの話を直接聞ける講座が開催されます。
彌勒さんはカウンンターテナーとしてコンサートに多数出演。最近ではオペラの演出家としての活躍も目覚ましいものがあります。そしてまたその経歴が興味深い。
歌舞伎や日本の古典芸能を研究し、ついには週に3日は歌舞伎座に通い「大向こう」、つまりかけ声を掛ける人にまで“成長”。
その後にオペラに出会い「これだ!」と思い東京藝術大学声楽科に入学。その後、イタリアに留学し、現在はヨーロッパを中心にリサイタル、オペラ、テレビ・ラジオ出演と大活躍しています。

講座ではルネッサンス期のイタリア貴族が「たしなみ」として身につけたものは何か?というテーマについて、フェッラーラのエステ家の話を中心に、映像を見ながら当時の様子を伺います。そしてバンケットにかかせない「歌とダンス」の実習もあり。正に小さな貴族のサロンです。
開催日は1129日(土)ですが、詳しくは今回のイベントを主宰する日本とイタリアの文化交流サロン『アッティコ』のホームページで確認してください。ワインとお楽しみおつまみ付きです。

日伊文化交流サロン アッティコ 

www.attico.net(pcサイト)

昨年のイタリアの「コモ湖フェスティバル」での弥勒さんの美声は下記で聞けます。
http://jp.youtube.com/watch?v=HZgP5Cny1w0
pcサイト)

2008/10/29

メディアの光と影、ピュリツァー賞とイエロー・ジャーナリズム

イエロー・ジャーナリズム とい言葉があります。ゴシップやスキャンダルを中心に扱うような「扇情的」で「俗悪」、そして「売り上げ至上主義」的な記事や番組、メディアを表す言葉であり、具体的な例については簡単に思い浮かぶと思いますが、この言葉は2人のジャーナリストと彼らが発行する新聞の激しい、そして危険な部数競争から生まれたものです。

19世紀末、ジョゼフ・ピュリツァーが発行する新聞『ニューヨーク・ワールド』はアメリカで最大の部数を誇っていましたが、それに対抗したのがウィリアム・ランドル・ハーストが発行する『ニューヨーク・ジャーナル』新聞でした。

新聞の販売競争が激化していた当時、新聞各紙は印刷機を改良して見出し、タイトルを色文字、カラーにすることに成功し、売り上げを大幅に伸ばしていました。そんななか 『ニューヨーク・ワールド』が黄色い服を着た少年が世間を皮肉るというマンガを連載したら、これが大ヒット。この主人公がイエローキッド(黄色い少年)と呼ばれたのです。しかし、ライバルの『ニューヨーク・ジャーナル』がこのイエローキッドの漫画家を引き抜き そのまま連載を横取りしてしまいます。人気漫画を取られた『ニューヨーク・ワールド』は別の漫画家を起用してこちらも、イエローキッドという漫画を再開させます。つまり、ライバル誌2つに同じキャラクター漫画が掲載されたのです。

当然ながら漫画キャラクターの権利が新聞社にあるのか、漫画家にあるのかを巡り2つの新聞の間で激しい争いが始まりました。漫画の内容も差別化を狙って、徐々に低俗で滑稽なものになっていきます。この騒動を見ていた人々が面白がって2つの新聞に、イエローキッド・ジャーナリズムと名づけたことから利益のためなら手段を選ばないという意味でのイエロー・ジャーナリズムという言葉が生まれました。もっとも、そう名付けた大衆が2つの新聞を面白がって読んでいたのですけどね。

とにかく、イエロー・ジャーナリズムの生みの親であり、権威あるピュリツァー賞にもその名が残るジョゼフ・ピュリツァーが1911年の今日1029日、64歳で亡くなっています。

2008/10/28

フランス料理を変えた「料理の皇帝」エスコフィエ

今日は、フランス料理の近代化に貢献し「料理の皇帝」とまで讃えられたスーパー・シェフ、オーギュスト・エスコフィエの誕生日(1846年生まれ)。彼はフランス料理に近代的調理システムを導入すると共に、シェフの分業による仕事の効率化、そして労働条件の改革にも力を注ぎました。彼の努力と名声によってシェフという職業の社会的地位が大きく向上したと言われています。一度にすべての料理を供するサービスが主流だったフランス料理に、コースメニューを導入したのもエスコフィエです。

エスコフィエは現在のリッツ・カールトンホテルの生みの親であるセザール・リッツと共にいくつものホテルを立ち上げました。その結果、エスコフィエの追求した料理の合理性は、ホテルや近代的レストランの調理法確立に大きく貢献することになりました。ちなみにベトナム戦争の英雄、ホー・チ・ミンも一時、シェフ見習いとしてエスコフィエの指導を受けていた時代があります。

そんなエスコフィエは美食家としても知られる作曲家ロッシーニのために多くの料理を考案しています。なかでも「牛ヒレ肉のロッシーニ風」(トルヌード・ロッシーニ)が有名ですよね。また桃を使った有名なデザートにペッシュ・メルバという逸品があります。桃のコンポートとバニラアイスとフランボワーズの組み合わせが絶妙なこのデザートはエスコフィエがオーストリア出身のオペラ歌手 ネリー・メルバのために作ったものなんだそうです。

2008/10/27

パガニーニが愛したトマトソース

1782年の今日1027日、ニコロ・パガニーニが誕生しています。彼は美食家としても知られていいましたが、彼の晩年、1839年にヨーロッパである一冊の料理本が出版され大きな話題になりました。『ナポリ風家庭料理』という本で、そこにはトマトソースとパスタを合わせるレシピが初めて紹介されていました。トマトが南米大陸からヨーロッパに持ち込まれてから350年も経ってからのことです。それまでパスタのレシピというのは茹でたてにチーズやバターを絡めるだけのシンプルなもの。やや贅沢に食べる場合には鶏肉のスープで茹で、味を濃厚にしたそう。

しかし、『ナポリ風家庭料理』に紹介されていたトマトソースとパスタの組み合わせはあっという間にイタリア全土に広がりました。パガニーニもこの料理を大変気に入った一人。ジェノヴァ出身で、超人的なヴァイオリン演奏の技巧で知られた彼は、トマトソースを知ると早速自分で試したようで、『トマトソースを煮て余分な水分を飛ばしてから、最後にみじん切りにしたキノコを入れると美味しいソースができる』と感想を書き残しています。

2008/10/24

三島由紀夫の肉体美、その美しさと哀しさ。

日本を代表する写真家、細江英公さんの写真展が26日(日)まで、表参道のギャラリー ホワイト ルーム トウキョウで開催されています。半世紀に渡り独自の映像美学を展開し、国際的な評価を得てきた細江英公さんの多くの作品のなかから今回展示されているのは『抱擁』と『薔薇刑』。1971年に発表されたシリーズ『抱擁』は、肉体を高度に抽象化し、生命のエッセンスを抽出した作品として歴史にその名を刻んでいる作品です。また、1963年に発表されたシリーズ『薔薇刑』は、小説家、三島由紀夫を被写体とした作品であり、細江英公さんの代表作であると同時に、戦後の日本写真史において最も重要な作品のひとつといえます。鍛えあげられた三島の裸体、ヌードを細江さんならではの構図でとらえたこの写真集は、発売当時賛否両論の波紋を呼びました。モデルとなった三島由紀夫は己の肉体を誇示するかのように、大胆なポーズで見るものに挑んできます。個人的には、時にそれはグロテスクで滑稽で、そして寂しくもあります。三島は何故、カメラの前でここまでしたかったのか、あるいは、しなければならなかったのか、今もよく分かりません。

2008/10/23

ゴールド展 その輝きのすべて 

会場内に足を踏み入れた途端、輝きに圧倒される。そんな眩しい企画展「ゴールド展 その輝きのすべて」が土曜日(25日)から六本木ヒルズ森タワー52階の森アーツセンターギャラリーで開催されます。

この企画展は元々ニューヨークにあるアメリカ自然史博物館が、ヒューストン自然史博物館と共同で企画し、2006年に開催したもの。アメリカで好評を博したため、世界を巡回することになったのですが、アメリカ国外で初めて公開されるのが日本となります。人々を魅了してやまない金の輝き。その魅力に、鉱物、歴史、宝飾、経済のという様々な観点から迫っていくことを趣旨としたこの企画展では単に黄金の輝きだけを見せるのではなく、自然の恵みとしての金の価値、金のもつ歴史的意義、そしてその輝きに見せられた人々のストーリーにも迫っていく内容です。

300点にも及ぶ豪華絢爛な作品の数々、そして自然史博物館ならではの独創的な展示を通して金にまつわる様々な物語を紹介し、金のもつ自然な美しさ、科学的価値、歴史を左右するパワーを紐解きながら、ゴールドに輝く魅惑の世界へと導きます。

光り輝く金の結晶や巨大な金塊、6世紀ペルーの花瓶、13世紀イランのイヤリング、ロシア皇帝ゆかりの秘宝「ファベルジェ・エッグ」などの世界各国の装飾品・美術品、難破船から引きあげられた財宝など人類の歴史のなかで、常に輝いてきた金の魅力を堪能してください。もちろんティファニーやカルティエ等老舗ジュエラーのゴールドコレクションも展示されています(女性同伴は危険かも)。

会場内には表面積約30 平方メートルにわたって金箔貼りされた眩い 黄金の部屋"が設けられていますが、実際に入ることができるそうなので、豊臣秀吉の気分が味わえるかも。

2008/10/22

日系移民の村トメアス、そしてアグロフォレストリー

現在発売中の雑誌『クーリエ・ジャポン11月号』(講談社)はミュージシャン宮沢和史さん責任編集による「新世紀ブラジル」特集。1994年に初めてブラジルを訪れて以来この国の魅力に惹かれ、以後14年間で20回ほど訪問しているという宮沢さんの視点で切り取ったブラジルの今、その光と影がさまざまに紹介されています。

特に興味深かったのは「日系移民が切り拓いた“足跡のない道”」というタイトルが付いた企画でした。今年は日本人のブラジルへの移住が始まって100年。ブラジルがポルトガルから独立してからまだ190年ほどなので、ブラジルにおける日系移民の歴史の長さがわかります。奴隷制度を廃止した為に農業労働者が不足していたブラジル。農村地帯の貧困問題に悩み、人口を減らしたかった日本。双方の利害が一致し、1908年、781人を乗せた笠戸丸が神戸港を出港したのが始まりでした。

以後、農業に適さない土地、貧困、マラリア、そして戦争による両国の対立など、移民の人々は次々と襲い掛かる苦難のなか、勤勉な生活を貫きブラジル社会に大きく貢献してきたのです。なかでも日系人たちが数々の野菜を栽培したことによって、ブラジルの食文化を広げたという話は有名です。

そこで『クーリエ・ジャポン』ではブラジルの農業、そして農業を通しての環境問題に貢献した日系の功労者たちを何人か取材して取り上げたブラジルのメディアを紹介しています。ここで宮沢さんが“偉大なトメさん”という意味のトメアスという村、そしてこのトメアスで日系人を中心に行われているアグロフォレストリーという新しい農法について語っている文章がありました。詳しいことは実際に雑誌を読んで頂きたいのですが、トメアスとアグロフォレストリーについて気になったので今日はその話をしようと思います。

ただ、トメアスの由来となったトメという人物が誰なのか分かりません。ご存知の方教えて頂けないでしょうか。

2008/10/21

ボリビアのなかにあるドイツ語社会。メノナイトの暮らし。

現在発売中の雑誌、『TRANSIT 』は南米特集。「美しきアンデス越えて」といタイトルのもと、ペルー、ボリビア、アクアドル、チリ、コロンビアなどなど、普段はあまり知る機会のない遠い国々の魅力を美しい写真とレポートで紹介しています。(たぶん)若い取材陣中心の誌面のなか、2ページですが大御所カメラマン、野町和嘉さんが写真とレポートを寄せていて、これが面白い!。タイトルは「メノナイト、自由への旅」。

メノナイトとは宗教改革の中で生まれた教派のひとつ。再洗礼派とも呼ばれ、親が強制的に授ける乳児洗礼を批判し、洗礼とは成人した本人が聖書の教義を理解したうえで、自らの意思で行うべきものであると主張し、実践しています。また、彼らは宗教と政治の完全な分離を主張し、人と争うことを拒む絶対平和主義を唱えています。そのため兵役に就くことを頑なに拒否しています。このように厳格な教義を掲げ実践しているが故、メノナイトは他の宗派や国家から迫害、弾圧を受け続けてきました。

元々はスイスやドイツからバルト海沿岸にかけて拡がっていったメノナイトですが、流転を繰り返し、メキシコやカナダに逃れました。さらに一部の人々は南米大陸に安息の地を求めたのです。ボリビアだけでも約35,000人のメノナイトが暮らしているのですが、野町さんがレポートしているのはボリビア第二の都市、サンタクルス郊外に暮らすメノナイトの表情。文明と一線を引き、周囲との接触を極力避けて暮らす彼らの生活はIT社会に漬かりきって、思考回路が錆付いてしまった僕らには、想像しがたいものでした。まず彼らは公の教育機関を否定し、ドイツ語のみによる独自の教育を自分たちで行っています。しかも男子は7年間、女子は6年間の小学校教育のみで終了。商売などで町へ出てボリビア人との話す機会のある男性はともかく、家に閉じこもったままの女性たちはスペイン語をまったく話せないそうです。

また、彼らは電力の使用を認めていません。テレビ、ラジオ、電話はもちろんカメラも自動車もダメで、移動手段は馬車。ただし、なぜかプロパンガスは使ってもよいのでガス冷蔵庫はもっている。酒、タバコ、そして音楽鑑賞も禁じられていて、さらに人と争うことが認められていないのでスポーツも禁止です。

彼らメノナイトの表情をとらえた野町さんの写真が何枚か掲載されていますが、本当に南米大陸に暮らす人々なのかと疑うほど、見事に北ヨーロッパ系の顔立ち。白い肌、青い目、そして金髪なんですね。メノナイトは他の人種とは結婚しないため、昔ながらの民族の外見的特長が守られているとのことです。

このように閉鎖的とも思えるメノナイトをボリビア政府が受け入れたのは、よく働く農民として定評のある彼らに農業開発を託そうとしたから。実際、彼らは土地のボリビア人たちよりよく働き、質素ではあるが豊かに暮らしているそうです。

そんなメノナイトにとって現在の悩みの種は、ボリビア人たちによる強盗事件。防衛のための自警団を組織することは彼らの信条に反するため、襲われたら逃げるしかないのです。

なお、メノナイトに興味を持たれた方、マグナムの写真家であるラリー・タウェルがカナダやメキシコに暮らすメノナイトの暮らしを追った素敵な写真集がありますので、機会があったらぜひチェックしてください。

2008/10/20

ブラジル移民100年を記念して

今年は日本からブラジルへの移民100年の年。移民した人々の歴史は苦難の連続でしたが、ともかくこの100年を記念して各地で様々なイベントが開催されています。なかでも東京都現代美術館では今週水曜日21日から2つの企画展がスタート。ひとつは日本とブラジルを代表するカメラマンの競演。「森山大道 ミゲル・リオ=ブランコ写真展 共鳴する静かな眼差し」。そしてもうひとつが、27組のアーティスト、クリエーターの作品を通じてブラジルの今の創造力を伝える「ネオ・トロピカ」です。今日は、この2つのイベントを紹介しつつ、ブラジルの話などしようと思っています。

2008/10/17

オスカー・バルナック賞

優れた報道写真に対して贈られる「オスカー・バルナック賞」を2007年度に受賞したブラジルの写真家Julio Bittencourtの作品が現在、ライカ銀座店で展示されています。展示されている作品数こそ少ないですが、その写真は非常に素晴らしくて見応えがあり、また考えさせられるものです。

ブラジル生まれで26歳のカメラマンJulio Bittencourtが撮影場所に選んだのはサンパウロにある収容所に住むホームレスの人々。サンパウロ中心部にあるこの施設は、ホームレス保護団体が所有して以来、1200人以上の人々に住まいを提供しています。

Julioはここに暮らす人々を2002年から撮影しているのですが、その撮影方法が少し変わっています。頼る場所も知り合いもなく、仕方なくそこに暮らす人々を撮影する場合、考えられる一般的なアプローチの方法は彼らと親しくなって距離感を縮め、ときには寝室などプライベートな部分にまで踏み込んで撮影することだと思います。しかしJulioは住まいに侵入することなく住民に近づき、収容所の364つの窓から顔を覗かせる彼らの姿だけを撮影したのです。撮影対象と距離も気持ちもある程度離れることで、真実を客観的に写し出そうとしたのだと思います。写真とは距離感ですから。

窓といってもそれは明るい日差しや幸せを呼び込むような外界との接点ではありません。まともにガラスで仕切られている訳でも、レースのカーテンが引かれている訳でもないのです。すすで黒くなった壁、壊れた窓に張られた当て布、あるいは継ぎ接ぎしてあるベニア板、それさえなく雨風にさらされる窓もあります。でも、そんなみすぼらしい窓でもそこに暮らす寄る辺無い人々にとっては、(様々な意味で)冷たい外の世界から身を守るための大切なシェルターなのです。

写真は守られた屋内と疎外的な外の世界との間にあるみすぼらしい壁が、いかに彼らに生活と安全を提供しているかを物語っています。虚ろな表情で外を見上げる老人、僅かな隙間に咲く花に水を与える夫人。

そして、一番素敵な1枚は妊娠している妻と、大きくなった妻のお腹に耳を当てて、心臓の鼓動を確かめようとしている夫の姿を捉えた写真。この写真には救われます。と同時に生まれてくる新しい命が1人でも多くの人に祝福されることを、地球の裏側から願わずにはいられない気持ちになりました。

なお、サンパウロの新しい市政は市の目立つ社会問題は取り除きたいと考えており、このような施設を撤去する予定だそうです。

2008/10/16

行ってみたいなアルティプラノ

昨夜、『ナショナル ジオグラフィック』日本版10月号を眺めていたら、思わず手が止まってしまった写真がありました。そこに映っていたのは、雲の上を走っている2台のクルマ。そしてそのさらに上方から自分がそのクルマと雲、天空を見下ろしているような錯覚に陥ってしまう光景です。もちろん撮影されたのは天空ではありません。南米大陸のアンデス山脈に抱かれたアルティプラノという標高3000メートルの高原地帯です。スペイン語で「高原」を意味するアルティプラノ。

ここには琵琶湖の約11倍の面積を誇るティティカカ湖やポーポ湖のような大きな湖のほか、乾燥した巨大な塩湖(えんこ)ウユニが広がり、この世のものとは思えぬ光景が広がっています。

太平洋の海洋プレートと南米の大陸プレートの激しい衝突によって誕生したこのアルティプラノには氷と火、風と塩が織りなす風景が果てしなく続いているそうで、雑誌には素晴らしい写真が何枚か掲載されています。例えば、繁茂する藻類で赤茶色に染まった塩湖から一斉に飛び立つフラミンゴ。1万平方キロに及ぶ塩の平原にあるサボテンと藻類の化石など、僕が今までみたこともない写真ばかりでした。

取材した人のレポートにはこんな言葉がありました。「人類が地球に出現する前の情景をこれほど鮮烈に見せつけてくれる土地は、ここ以外にはないだろう。まばゆく輝くウユニ塩原を4輪駆動車で走っていると、時間が止まったような錯覚を起こす。」

ご興味ある方、現在発売中の『ナショナル ジオグラフィック』日本版10月号で確認してください。

2008/10/15

風のように去った人、早坂文雄

1955年の1015日、作曲家、早坂文雄が41歳の若さで亡くなりました。黒澤明をはじめ、溝口健二、成瀬巳喜男など日本を代表する監督と数多くの仕事をした他、当時としては先鋭的だったクラシック音楽を作曲し。若き日の武満徹や黛敏郎らにも大きな影響を与えた人物です。

早坂は大正3年、1914年に仙台に生まれて幼児期に札幌に移りますが、そこで出会ったのが同じ年生まれで、互いに良き理解者でありライバルとなった伊福部昭でした。一般的には『七人の侍』の早坂、『ゴジラ』の伊福部と映画音楽での業績で語られることの多い2人ですが、共に昭和のクラシック音楽界を牽引した前衛的な作曲家でもあったのです。2人は友人らと共に札幌で音楽祭を開き、サティやストラヴィンスキーの音楽をいち早く日本に紹介しています。

しかし、やはり何と言っても早坂文雄が残した最大の遺産は、黒澤明監督とのコンビによる数々の映画音楽ではないでしょうか。『酔いどれ天使』に始まり、『野良犬』『醜聞』『羅生門』『白痴』『生きる』『七人の侍』と早坂は7本の黒澤作品で音楽を担当しています。そして、8本目となった映画『生きものの記録』の撮影中に、結核のため41歳の短い生涯を閉じました。

「黒澤さんに申し訳ない。撮影中にこんなことになって申し訳ない」。 それが最後の言葉。
また、早坂の訃報を知った黒澤は「あんな人はいない。もういない。あの人に死なれてしまって、僕など、どうしたらいいというのです」。そう言って泣いたそうです。

なお、早坂文雄の短い生涯と功績、そして黒澤明との交流については『黒澤明と早坂文雄  風のように侍は』(西村雄一郎=著 筑摩書房)に詳しく書かれています。これは黒澤明と早坂文雄が『七人の侍』を完成させ、三船敏郎が被爆経験者である老人を演じた『生きものの記録』の制作途中で早坂が死ぬまでの日々を追った素晴らしいノンフィクション。黒澤と早坂の少年期から壮年期までを交互にオムニバスしつつ、2人の周辺の人物、つまりは日本映画の黄金期を支えた人々を鮮やかに描き出しているので日本の映画史としても読めます。

2008/10/14

ブレッソンが捉えた「戦う男」バーンスタインの躍動

1990年の1014日、20世紀最大の指揮者の一人である、レナード・バーンスタインが72年の生涯を閉じました。死因は肺癌。彼は1日100本のタバコを吸うヘビースモーカーだったそうで、もう20回以上禁煙宣言している僕は複雑な心境であります。

バーンスタインはアメリカ生まれの音楽家として始めてアメリカのオーケストラ(ニューヨーク・フィルハーモニー)の音楽監督に就任した人です。それまでアメリカのオーケストラのトップにいたのは、ヨーロッパから亡命してきたり、一時期出稼ぎにきていた指揮者だったのです。貧しいロシア移民の子供がアメリカのオーケストラの頂点に立つ。バーンスタインはまさにアメリカンドリームを指揮棒1本で実現させた人間であり、それがまた彼の絶大な人気の一因であったのかも知れません。

バーンスタインはまたカラヤンと共に音楽の映像化において先駆者的な役割を果たしました。今日、彼が指揮する姿は多くのDVDとして残されています。実際、写真や映像を見ると彼はなかなかのハンサム。指揮する姿もダイナミックで様になっています。
そんなバーンスタインの一瞬の躍動をフィルムに焼き付けたのがカルティエ・ブレッソンでした。とはいえ、僕はその写真を写真集や雑誌で見たわけではありません。ブレッソンを追ったドキュメンタリー映画『瞬間の記憶』(2003年)という作品で知ったのです。
この映画のなかでブレッソンはパリ、ルーブル美術館に近いアパルトマンの自宅で、自分の作品を見ながら思い出を語っていくのですが、その中の1枚が指揮棒を振るバーンスタインを映した写真でした。会場に人がいないのでリハーサルの光景だと思いますが、正確な場所と時間は分かりません。でもそこに映し出されたバーンスタインは本当にかっこいいのです。膝を曲げて越をやや屈め、両手は上から下に力強く振り下ろされ左右に広がっています。その姿は走り幅跳びの選手が着地する瞬間のようでもあり、あるいは野球の審判がクロスプレーのときに見せる“セーフ!”のポーズのようでもあります。映画の中でブレッソンはバーンスタインの写真を見ながら一言こう言います。「戦う男だ!」
このシーンは映画開始から24分と少々のところから流れます。ご興味のある方はぜひご覧になってください。


2008/10/13

早い者勝ちです!『アル・ケッチァーノ』ツアー

今、日本で一番予約が取りづらいイタリアン。それは銀座でも青山でもなく、東北にあります。しかもそのレストランは駅前や繁華街の洒落たビルの中ではなく、最寄り駅からバスかタクシーで行かなければならない場所にあります。絶えず車が行き来していて、やや騒がしい道沿いにぽつりと店を構えているのです。

山形県鶴岡市、日本海に面し三方を山に囲まれた庄内平野。作家藤沢周平も愛したこの地の片隅に、日本中の食通が集まるイタリア料理店『アル・ケッチァーノ』はあります。この店のシェフ、奥田政行さんは土地柄と気候から「庄内は日本のイタリア」と評価している人。そしてその庄内で獲れた生命力溢れる食材で、「世界でたった一つのイタリアン」を作り出しています。食通のみならず、日本を代表するイタリアンシェフたちさえも一度食べてみたいと願う奥田さんの料理。
そんな予約の取りづらいイタリア料理店『アル・ケッチァーノ』に行って、奥田シェフの料理を思う存分楽しめるツアーが開催されます。このツアーを企画しているのは日本とイタリアの文化交流サロン「アッティコ」。イタリア繋がりということで、「アッティコ」では『アル・ケッチァーノ』と奥田シェフがこれほど有名になる前からお付き合いがあり、その縁で実現した特別なツアーです。ツアーは1泊2日、ディナーとランチ、2回『アル・ケッチァーノ』での食事が楽しめます。そして、奥田シェフの案内で地元食材生産農家を見学できるのですが、これがとてもいい経験になるんですね。
地元の食材を何よりも大切にする奥田さん。そして奥田さんに刺激されて地元の生産者たちも、より素晴らしい農作物を作ろうと努力しているのです。僕もこのツアーに2年ほど前参加したのですが奥田さんという人の登場によって、鶴岡の地場産業が非常に活気付いているな、という印象を強く受けました。そんな奥田シェフ、そして生産者の方々の話をゆっくり聞けて質問までできるのもこのツアーの魅力です。日程は12月5日(金)と6日(土)の1泊2日、詳しくはブログに記載したアドレスで見てください。最大でも15名が定員なので、これは早いもの勝ちです。なお、申し込みは明日14日からになります。●ツアー料金、日程などの詳細はアッティコのホームページ
http://www.attico.net/alchecciano/ (pcサイト)
●お申込・お問合せは旅行開発センターまで
電話 03-5159-1109
http://www.ctetours.com/ (pcサイト)


2008/10/10

連休は赤坂でアート体験。赤坂アートフラワー08

この3月にオープンした赤坂サカスを中心に、旧赤坂小学校、赤坂の商店街、氷川神社など7つの会場に国内外で活躍する18組のアーティストの作品を展示する、赤坂アートフラワー08の開催終了が来週月曜日13日(祝)となりました。TBSと現代アートが手を取り合って、赤坂からアートの魅力を発信したい。現代アートを通して赤坂の街の素晴らしさと奥深さをより多くの人に再認識して欲しい。そんな思いでスタートさせたこの新たな試みに参加したアーティストは皆、必見の作家ばかり。赤坂サカスのギャラリー内には、世界的なアーティスト草間彌生の「Dots obsession」という作品が展示されています。Dotsとは水玉のこと。黄色地に広がる黒い水玉が「昼の世界」、黒地に広がる黄色い水玉が「夜の世界」を表現しています。水玉は草間が常に追求し続けているテーマ。その水玉が360度に及んで広がる世界は、まさに草間ワールド。圧巻です。また赤坂サカスからほど近くに位置する東京ミッドタウンでも、吹き抜け部分や屋外に赤地に白色の立体作品を展開しています。

氷川神社の境内には、第二次大戦時に被弾して幹に大きな穴を抱えながら、今も見事に枝葉を繁らせる樹齢400年のイチョウの木があります。オノ・ヨーコはこの木のまわりに、1996年より世界中で行なっている平和祈願のプロジェクト「Wish Tree/念願の木」の木々を置き、アート作品としました。観客が願いごとを白い短冊に書いて枝に結ぶと、そのメッセージはオノの元に届けられ、平和のモニュメントに収められる。このほか、空、石、音、土といった、普遍的な存在をテーマとした4つの作品が、厳かな境内にひっそりと溶け入るように展示されています。

赤坂の街を屋外ミュージアムに見立てたこのイベントでは他にもあなたの感性を刺激する作品がたくさん。7つの会場すべてに足を運び記念スタンプを集ると、サカス広場券売ブースにて草間彌生さんデザインのグッズをもれなくプレゼントしてもらえsるそうなので、これはなかなかレアかも。

赤坂アートフラワー08

http://sacas.net/artflower/index.htmlpcサイト)


2008/10/09

妻が語る英雄の素顔『わが夫、チェ・ゲバラ 愛と革命の追憶』

1967年の今日10月9日、キューバ革命の英雄チェ・ゲバラがボリビアで処刑されました。享年39歳。彼の2度目の妻であり、4人の子供を設けたアレイダ・マルチが40年の沈黙を破り、ゲバラとの約10年に及ぶ日々を回想した本が『わが夫、チェ・ゲバラ 愛と革命の追憶』(後藤政子=訳 朝日新聞出版)という1冊。キューバ革命に参加していた著者はそこでゲバラと出会いました。厳しい闘争のなかで恋に落ちた2人は革命が成立すると結婚し、以後ゲバラの最も身近にいた人物が妻アレイダだったのです。それだけに革命家、英雄としての従来のゲバラ像だけではなく、人間味溢れる、普通の夫、父親としての彼の一面を垣間見ることができます。また、妻に宛てた手紙や詩、寛いだ表情で映った写真も多数掲載されています。ゲバラは写真を撮ることは好きだったのですが撮られるのは嫌いだっただけに、これは非常に価値のある資料でもあります。

ゲバラはボリビアへ向かう直前から別の人間に成りすまし、存在を隠していました。そのためまだ幼い子供たちとの最後の別れのときも60歳の老人に変身し、父親の友人であると言って会ったのです。家族で過ごす最後の時間はあっというまに過ぎましたが、子供たちは“老人”が自分たちに対して何か特別な感情を抱いていることを感じていたそうです。

この本を読んでいて救われる思いがしたのは、ゲバラとカストロが最後まで良好な関係にあり、互いが信頼と尊敬の念で結ばれていたこと。そしてカストロが残されたゲバラの家族に対して常に配慮を忘れないでいる、というアレイダの告白です。ゲバラがキューバを去ったのはソビエトに対する姿勢の差などに起因するカストロとの確執が原因であるという説もあります。それも事実なのかもしれませんが、少なくともアレイダの回想では2人は最後まで良き同志であったのです。

■シモン・ボリバル ユース・オーケストラ オブ・ベネズエラ コンサート■

http://kajimotoeplus.com (PCサイト)

2008/10/08

誰も真似できない、真似すべきではない研究に関する書『イグ・ノーベル賞』

今年度のノーベル賞が発表され、日本の研究者3人が物理学賞を受賞しました。これで日本人のノーベル賞受賞者は15人。そのうち7人が物理学賞での受賞です。

ノーベル賞を受賞しても「あまりうれしくない」とコメントする人は少ないと思いますが、いっぽうで受賞してもさほど“ありがたみの無い”のがイグ・ノーベル賞です。イグ・ノーベルは英語で「下品な」という意味の言葉、イグノーブル(ignoble)とノーベルをかけたしゃれみたいな名前の賞です。この賞は米ハーバード大学系のパロディー科学誌「奇想天外な科学年報」などが主催し、1991年に創設され「人を笑わせ、そして考えさせた研究」や「真似ができない、真似するべきではない」業績に対して与えられます。同賞には、工学賞、物理学賞、医学賞、心理学賞、化学賞、文学賞、など多くの部門があり、毎年10月、風変わりな研究を行ったり、社会的事件などを起こした10の個人やグループに対し贈られます。選考委員には多くの科学者、専門家、あるいは本物のノーベル賞受賞者も含まれる他、たまたま通りかかった人が参加することもあるそう。授賞式はハーバード大学でおこなわれますが、受賞者の旅費、滞在費は自己負担で、式のスピーチでは聴衆から笑いをとることが要求される。その上、スピーチが長すぎると、ミス・スイーティ・プーと呼ばれる女の子が寄ってきて「もうやめて。飽きちゃった。もうやめて。飽きちゃった」と連呼するそうです。

このイグ・ノーベル賞の創設者であるマーク・エイブラハムズが歴代の受賞者とその研究について書いたのが『イグ・ノーベル賞』(福島俊造=訳 阪急コミュニケーションズ)という1冊。その中から、タイトルだけでも笑える?研究をいくつかピックアップしてみます。

●思春期における「鼻クスをほじる行動」の研究

リスクを引き受けたくないと駄々をこねた英国一の保険会社の投資家

自動車盗難防止用火炎放射器

遠心力を利用した出産促進マシン

水に記憶力があることの実証

まじめに読むのが馬鹿らしくなるような研究ばかりですよね。でも、枕元に置いておいて、たまにページを捲るには意外と面白い本ですよ。一家に一冊『イグ・ノーベル賞』。

2008/10/07

もしも東京都庁舎が低かったら?『磯崎新の「都庁」 戦後日本最大のコンペ』

「もしも東京都庁舎が低層建築だったら、新宿の景観はどうなっていたのだろうか? その後に続いた高さを競い合う高層ビルの建築ラッシュは抑制されたのだろうか?」

そんな「たら、れば」なことを考えさせられるノンフィクションが『磯崎新の「都庁」 戦後日本最大のコンペ』(平松剛=著 文藝春秋)という1冊です。

高さ243メートル、1991年の完成当時は日本一の高さを誇っていた東京都庁舎を設計したのは丹下健三。庁舎の設計者を決める際には9社を指名してのコンペが開催され、丹下健三の弟子であり18歳年下の磯崎新も加わっていました。様々な条件から新しい庁舎は超高層ビルを2棟建設するという案を誰もが想定していたのですが、磯崎新は大胆にも「都庁低層案」でコンペに挑んだのです。そのキーワードは「広場」と「錯綜体(リゾーム)」。本の表紙には幻に終わった低層建築の庁舎と磯崎新の似顔絵が描かれ、裏表紙には実際に建設された庁舎と丹下健三の似顔絵が描かれています。何故、磯崎新は東京都の新庁舎を低くしたかったのか? そして何故敗れたのか? 著者はそのドラマや、磯崎新の格闘と苦悩、そして思索の軌跡を丹念に取材し、非常にわかりやすく紹介してくれます。また、東大を中心に築きあげられてきた近代日本の建築史、建築を取り巻く多くのプロフェッショナルの仕事ぶりなども描かれていて、建築の入門書としてもお勧めできます。ただ一つだけ残念なのは取材が磯崎新サイド中心であること。丹下健三が2005年に91歳という高齢で亡くなっているので致し方ないことなのですが(本の出版は今年)、そこだけが気になりました。

なお、インターネットで検索したところ磯崎氏は後年、次のようなことを書いているそうです。ウィッキペディアの磯崎新の項目から転載します。

読売新聞で、バブル期の東京都の公共建築である東京都芸術劇場、東京都庁舎、江戸東京博物館、東京都現代美術館、東京国際フォーラムの5作品を「粗大ゴミ」と評した。ただ、これは建築家のデザイン力だけではなく、東京都が建築家に要求したプログラムに対する発言とされる。(『磯崎新の発想法』参照)

実際の文章を読んでいないので磯崎氏の真意は分かりませんが、確かに江戸東京博物館はひどいと(個人的には強く)思います。

ヴォーカル・アンサンブル カペラ

http://www.cappellajp.com/ (PCサイト)

2008/10/06

ル・コルビジュエの誕生日、そして新宿の新しい高層ビル

1週間、休みを頂きました。また今日からよろしくお願いします。でも、リフレッシュできたわけでもなく、逆に筋肉痛なんですけどね。
1887年の10月6日、偉大なる建築家であるル・コルビジュエがスイスのラ・ショー=ド=フォンに生まれています。彼は近代建築、都市計画に大きな影響を与えましたが、同時に多くの弟子、後輩を輩出した人でもあります。そして現在ル・コルビジュエの門下生だった2人の建築家の業績を知ることができる企画展が2つ開催されています。

1つはコロンビアの建築家ロヘリオ・サルモナ(1929~2007年)の企画展(新宿、ギャルリー・タイセイ ~1121日)。

サルモナはル・コルビュジエのもとでそのキャリアをスタートさせ、師から大きな影響を受けるのですが、結果的にはル・コルビジュエの仕事に幻滅してしまいます。そしてラテン・アメリカに拠点を移した後は、南米特有の建築・都市のあり方を模索し続け数々の傑作を残しました。彼が主に活躍したコロンビアの首都ボゴタは写真で見る限り、本当に美しい街です。

もう1つはブラジルの建築家オスカー・ニーマイヤー(1907年~)の企画展(原宿、GAギャラリー)。ニーマイヤーはル・コルビジュエの元で一時働き、後に2人でニューヨークの国連本部ビルをデザインしています。今日は午前中にロヘリオ・サルモナの企画展に足を運んできたので、その話も少ししてみたいと思います。

ところで日本の近代建築を牽引した前川國男もル・コルビジュエの事務所で働いていたことがあり、その前川の元で働いたのが丹下健三ですが、彼自身もル・コルビジュエの本を読んで建築を志したと伝えられています。さらに丹下事務所では磯崎新や黒川紀章が働いていて、さらにそこから青木淳など多くの建築家たちが巣立っていったことを考えると、現在の東京の建築群、風景にはル・コルビジュエの意思が反映されているのかも知れません。

そういえば、新宿に新たに加わった高層ビル、コクーンタワーの設計を担当したのは丹下健三の息子である、丹下憲孝です。天国のル・コルビジュエのがあの繭(コクーン)を見下ろしたら、どんな感想を抱くのでしょうか?


2008/10/03

金曜日にはクスクスが食べたい

今日は、にむらじゅんこの担当の最後の日です。

来週からは話題豊富な、いつもの清水さんが戻ってまいります。

今日は、金曜日。イスラムでは聖なる日で、モロッコではみなで集まってクスクスを食べる日です。今日は私の好きな国、モロッコのお話をしたいとおもいます。

 モロッコは、音楽フリークにはたまらない国です。まず、“クラシック音楽”としては、アラブ・アンダルシア(Arabo-andalouse)音楽があります。その名の通り、スペインの南部・アンダルシアで花を咲かせた音楽です。中世イスラムの中心地であったアンダルシアには、東西のアラブ人たちが集まって絢爛豪華な文化が開花しました。そして、レコンキスタで彼らがイベリア半島から追い出され、コルドバにのがれた際、その成熟した音楽形式は、モロッコ、アルジェリア、チュニジアの北部に持ち帰られ、それぞれの都市で違った発展を遂げていったのです。モロッコでは、フェズやタンジェ、ラバト、テトゥワンなどの北部に伝わり、アラブ・アンダルシア音楽を奏でることは文化人としてのたしなみとして今でも定着しています。

 こうした正統派クラシックがあるその一方で、「同胞音楽集団」と呼ばれる形のものもあります。中でも有名なのは、グナワ(Gnaoua)。ジミ・ヘンなどのロックミュージシャンたちもグナワ音楽にとり憑かれ、グナワの要素とパワーを自分のものにしようとしていましたが、彼らは、その昔、マラケッシュやメクネス、エッサウィラのスルタンの近衛兵としてマリ、ギニア、ガーナなどのサハラ砂漠の南から連れて来られ、雇われていた黒人たちなんです。そして、預言者モハメッドの仲間であったビラールを精神的祖先として崇めていました。このビラールという人物は音楽によってモハメッドの娘のファティマの病気を治したと伝えられている偉大な黒人です。それゆえ、グナワのイメージは「医学」と深く結びつき、病を治療する楽団として現在でも大活躍しているのです。満月の夜に行われるグナワたちの儀式は、リラ(Lila)と呼ばれており、これは、悪霊(ジン)にとりつかれた人たちから「悪(ジン)」を取り払う音楽療法なんです。グナワたちが打ち鳴らすリズムが悪霊のリズムに調和した瞬間、患者はトランス状態に陥り、肉体から浮遊してしまうんです。

 私は、パリの郊外で一回、そしてモロッコで一回、この夜会に参加したことがあるのですが、患者たちは泣き出したり、イタコのようにすごい勢いでしゃべりだしたり。音楽の威力というのはすごいな、とおもいました。

Guruguru

グナワ同胞音楽集団は患者たちの治療をします

カルカベという鉄製カスタネットをもって、グルグル頭を回します

2008/10/02

パラグライダー・チェックイン

 今年、にむらが訪れたリゾートで印象深かった場所のひとつが、オマーンです。

 オマーンのムサンダム半島にあるリゾート、シックス・センシズ・ジギーベイ。かつては海賊海岸と呼ばれて恐れられていたムサンダム半島は、オマーンの飛び地として、アラブ酋長国連邦の中にあります。ですから、ドバイから送迎リムジンに乗れば、一時間半ほどでエメラルド色の海が広がるこのジギーベイにたどりついてしまうのです。

車は途中で四輪駆動に乗り換え、岩肌の粗い山に登って、ここから、パラグライダーで、リゾートのビーチへと空中からチェックインをするんです。

「高所恐怖症の方は、船や車でもチェックインできますよ」といわれましたが、平和なオマーン湾を見下ろしながら、フワフワ舞い降りていく経験というのは、人生で何度もチャンスがあるものではありません。しかも、プロのインストラクターが、同じ羽の下でちゃんと操縦してくれるというので、パラグライダーに初挑戦してみることにしました。

断崖に立って地面から足を離す時、やはり、一瞬、かなりの勇気がいるんです。でも、次の瞬間、身体は人肌のように暖かい潮風の中に浮いていました。目の前には青い空と海がどこまでも広がっていて、下にはリヴィエラのリゾートがミニチュアのように可愛く見えます。

ファンタスティックな空からのチェックインもよかったのですが、オマーンは人が優しくて、日本に最も近い中東の国だけあって、親しみがわきました。ちなみに、オマーンの王室には、日本人の血をひいたプリンセスもいるということです。

Ottava Moderato, 今週は、作家のにむらじゅんこが東京・赤坂のOttava studioから生放送でお送りしています。

Roberta3 Para

私の足です。

2008/10/01

上海のエコ島

清水さんのピンチヒッター、3日目のにむらじゅんこです。

今日は、エコロジーにまつわるお話をしようと思います

崇明島(すうめいとう)という島を知っていますか?

あまり耳慣れない名前ですが、実は、中国で2番目に大きい島なんです(台湾を入れると3番目ですが…)。しかも、上海市域にあります。

この島は、 上海市域にある最後のエコ浄土。未だ清らかな風土を保つ この地は “生態島 ”と国からも市からも制定されているんです。

 この崇明島 の面積は、約12キロ平方メートル。海南島に次いで最も大きな島に数えられていますが、実は、この島は、 “中洲” なんです。世界最大規模の三角州なのです。 長江から流れてくる土砂によって形成され、今でも年間 150メートルの速さで東に向かって成長し続けている 、「生きている島」なのです 。

鑑真和尚が日本にやってきた頃の唐の時代は、 この崇明島は、小さな ぬかるみの島でしかなかったという記録があります (ちなみに、その頃の上海は まだ海の中でした!) 。だんだんと島が大きくなるにつれて、人が移り住んで農作や漁業をするようになっていき、 最近では、三峡ダムの建設によって移転を余儀なくされた農民が、移り住んできました。

この崇明 島は、上海からはフェリーで片道一時間ほど。しかし、近い将来には、地下鉄9号線が長江を超えて 島に直通します。また 、橋とトンネルを使って高速道路を開通させるプロジェクトも、2010年の万博にむけて 数年前からすでに稼働中 。市民たちが気軽に日帰りできる ドライブスポットになることでしょう。

私も上海に住んでいたころ、この崇明 島に足を運んだことがありますが、湿地に鳥がいる、半ばジャングルのような場所でした。でも、2010年の上海万博には、前衛なエコロジー島(?)になる・・・ということです。

profile

清水清

 テニス専門誌や幻の名雑誌といわれた『バッカス』の編集を経て、『エスクァイア』日本版編集部に。4年間を副編集長、5年間を編集長として在籍し、イタリアのスローフードやバリ、日本のBAR、沖縄、アートなど自分の趣味をそのまま誌面に反映させた特集に従事する。 『エスクァイア』退職後、4ヶ月間の石垣島生活を経て、現在に至る。座右の銘は「漂えど沈まず」。

2010年9月

      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

カテゴリー

program link

Copyright© 2009 OTTAVA - All rights reserved.

OTTAVA TOP