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2008年7月

2008/07/31

食欲の無い日にはターフェルムジークを。

暑くて食欲減退、そんな方も多いのではないでしょうか。古の王侯貴族はそんなとき、傍らで優雅な音楽を奏でさせて饗宴、食事会を盛り上げていました。そんな食事会のために16世紀から17世紀にかけて作られた曲をターフェルムジークといいます。

ターフェルムジークはドイツ語で食卓の音楽、テーブル・ミュージックのこと。私的な祝宴、あるいは戸外のイベントのバックで演奏されることを目的とする音楽形式のことを意味します。このターフェルムジークで有名なのが後期バロック音楽を代表するドイツの作曲家、ゲオルグ・フィリップ・テレマンでした。

テレマンは1681年生まれなので、バッハやヘンデルの4歳年上なのですが、生前はバッハやヘンデルより、テレマンの方が人気と名声が高かったそうです。1722年、ライプツィヒのセントトーマス教会の楽長が亡くなった時、ライプツィヒ市はまずテレマンを招聘しようとしたが断られたため、仕方なく知名度の低かったバッハを招聘したというエピソードも残っています。ターフェルムジークはいわば食卓のBGMですから、他の目的のための音楽に較べて、いくらか軽いのが特徴だったそう。

テレマンは膨大な作品を残していますが18世紀になると、ターフェルムジークの役割はイタリア語で楽しい、気晴らしなどを意味するディヴェルティメントに取って代わら、彼の存在も影が薄いものとなってしまいました。

2008/07/30

イタリアの海はヨーロッパ№1?

イタリア労働省、厚生省、社会連帯省がまとめたデータによると、イタリアはヨーロッパの中でもっとも汚染されていない海を持つ国であり、96.2%の海岸で海水浴が可能とのこと。

美しい海に囲まれたイタリアの中でワーストに選ばれた、つまり汚染された海を持つと判断されたのはナポリを州都に持つカンパーニャ州。それでも海岸全体の81%が海水浴可能です。ワーストナンバー2はイタリア半島の先端に位置するカラブリア州とローマが州都のラツィオ州で93%が海水浴可能。

ローマ県だけで141.5kmに渡る海岸線がありますが、州全体として海水汚染が理由で海水浴が禁止されているのは全体で20.5km程度の海岸だとか。海水汚染地区に指定されているほとんどの地区は港のあるエリアや河口付近にある海水浴場です。

ローマの人々が週末に訪れるサバウディアやポンツァ島も浄化装置が設置されていないため、付近の住宅や工場の排水による汚染の可能性が高いよう。

とは言え、年々、環境問題に対する国民の意識が高まっていることは確か。以前は日焼けを楽しむだけで海水浴は避けた方がよいと言われていたローマ近郊のフレジェーネやオスティアの海水の質は少しずつ回復しているようです。

2008/07/29

ノッテ・ビアンカの開催危うし!

ローマの夏の風物詩として定着したのがノッテ・ビアンカ、白夜、眠らぬ夜です。今年で6回目を迎えるこのイベントは9月初旬の週末に行われます。ローマ市内の広場や通り、あるいは郊外でさまざまなイベントが開催され、レストランや商店も多kくが深夜営業をするなど、ローマは眠らぬ街となるのです。

昨年は天候にも恵まれ、前年を15%も上回る250万人が参加。400以上もの野外コンサート、芝居、ダンスなどのイベントが開催され、美術館や遺跡も夜通しの開館となりました。

ところが、このノッテ・ビアンカ、今年は開催が危ぶまれています。前のローマ市長だったワルテル・ベルトローニ(中道左派)は文化イベントに理解がありノッテ・ビアンカの開催にも理解を示していたのですが、今年4月の選挙で新しく市長になったジャンニ・アレマンノ氏(中道右派)は、全国紙「ラ・レプブリカ」が行った読者調査の結果を受けて「スポンサーが付かなければ今年のノッテ・ビアンカは開催しない」と発表しまたからです。財政難に苦しむ市の予算をイベントに使うのは単なる浪費に過ぎない、というのがその見解。

ローマ市長は15年間、中道左派が支配してきただけに、今回、中道右派のアレマンノの勝利は歴史的なもので、彼の手腕に期待がかかるのは事実。しかし、無料でみんなが楽しめるコンサートや芝居が見られる数少ない機会を取り上げるのはよくない! ただでさえ明るい話題がないなか、ノッテ・ビアンカまでなくなったらさらに暗くなる!などの反対意見も多々あるようです。

イタリアでは今年から不動産に対する固定資産税が原則排除されたことで各市は大きな収入源を失い、そのツケが徐々に目に見えるようになっています。まずは文化・芸術に対する予算が削られ、さらには福祉や教育にまで影響を及ぼしはじめているようです。

というわけで、開催有無で論争を巻き押している今年のノッテ・ビアンカ。現時点では予定どおり9月の第2土曜日である13日から14日にかけて開催されるようですが、市内の各エリアや団体が資金を集めなければならないため、ミニ・ノッテ・ビアンカとなりそうです。

実行委員会会長は、「お金がないなら頭を使おう!」と教会、各団体、アーティストたちに呼びかけ、すでに何人かのアーティストたち(ミュージシャン、ダンサー、俳優)は無料での出演を承諾。毎回、大雨や大停電に見舞われなんとなく不運なイメージのあるノッテ・ビアンカ。今年はどんな眠らぬ夜になるのでしょうか。

2008/07/28

トスカーナの新名所、ワインステーション

今日は日本とイタリアの文化交流サロン「アッティコ」の協力でイタリアの話題をいくつかお話します。

イタリア、トスカーナのワイン生産地に昨年、新しい観光名所「ワインステーション」が誕生しました。仕掛け人は1997年にイタリアの最優秀エノロゴ(醸造技術者)の称号に輝き、2006年にはワイン・オスカー賞を受賞、新世代のワインメーカーとして世界的に知られるロベルト・チプレッソ氏です。チプレッソ氏はイタリアの州をまたいで異なるブドウ品種をブレンドしてしまうという画期的なワイン作りで知られています。

そのチプレッソ氏が音頭を取り、1865年に建てられ、その後、手が加えられることもなく放置されていたモンタルチーノ駅の修復に成功したのです。シエナとグロッセート、2つの行政を巻き込んだこのプロジェクトにより、駅構内や常設の電車内には、ワインバー、ワインショップ、ワインセラーなどが設けられ、「ワインステーション」として機能しています。また、春から秋までの週末に限り、シエナ~モンタルチーノ間にワイン・トレイン (IL Treno del Vin/イル・トレーノ・デル・ヴィーノ)を走らせています。車内でワインを1杯やりながら、世界遺産に登録されている美しいトスカーナ地方の丘陵地帯ヴァル・ドルチャ(オルチャ渓谷)を堪能するという、ワイン好きには嬉しいツアーです。ツアーにはチプレッソ氏が主宰するセラー「Winecircus(ワインサーカス)」、ワインステーション内の見学、ワインバーでの休憩も含まれていて、その他オプションとしてトスカーナ料理1品のデモンストレーション(8ユーロ)、ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ3種の試飲(20ユーロ)もあるそうです。

ツアーへの参加は予約制。料金は大人89ユーロ、6-1459ユーロ、5歳以下無料となっています。その他、4/20から11/30までの毎週日曜日にフィレンツェから出発する「トスカニー・スロー・トレイン」もあり。詳しくはこちらからhttp://www.winestation.it/index.htmlPCサイト、英語・イタリア語)

2008/07/25

温泉とアートの休日『觀海庵(かんかいあん)』

群馬県・伊香保グリーン牧場の敷地内にある、現代美術館ハラ ミュージアム アーク。その開館20周年を記念して、古い美術品、古美術のコレクションを展示する新しい施設『觀海庵(かんかいあん)』が27日(日)にオープンします。觀海庵という名前は、現在の館長原俊夫さんの曽祖父にあたる実業家、原六郎氏に由来する名前。幕末から昭和にかけての大実業家だった原六郎氏はまた、和歌を読むことを趣味としていましたが、俳人として「觀海」と名乗っていました。また「觀海」というのは中国の思想家、孟子の言葉にもあるそう。

その意味は“大きな海を見たことのある人々は川を対したものだと思わないし、聖人の元で学んだものは、たいていの言論を聞いても対したものとは思わない”。ということなんだそうです。

『觀海庵』の建築を担当したのはハラ アーク ミュージアムと同じく磯崎新さん。約100㎡の空間ですが、磯崎氏が考え抜いた空間コンセプトにより、日本の伝統的空間意識を継承しながらも、21世紀に相応しいユニークな建築となっています。特に注目なのは現代美術館の展示コーナーから続く60メートルの渡り廊下。この長い廊下はガラスのない半野外空間で、緑豊かな景色と高原の空気を楽しみながら、現代美術から古美術へという、ことなる世界へ入っていくことができます。

『觀海庵』で展示されているのは、原六郎氏が収集した国宝・重要文化財を含む約120点の古美術コレクション。円山応挙、狩野永徳、芝馬江漢など、近世日本画壇の巨匠たちの作品も含まれています。27日から「觀海庵落成記念コレクション展 まなざしはときをこえて」を磯崎新さん監修の元に開催します。

場所はJR渋川駅から伊香保温泉行きバスで16分ほど。アートと温泉、そんな1泊2日の休日はいかがですか。

2008/07/24

フロイト、ウナギを研究する

土用の丑の日ですね。昨今多々問題はありますが、やっぱり今日は蒲焼が食べたくなるものです。僕の場合は白焼きで冷酒ですかね。ウナギというのはまだ分からないところだらけの生き物で、それだけに古今東西、様々な賢者が研究対象にしてきました。ソクラテスなんて、ウナギはミミズから生まれると信じていたほどです。

精神分析の父と呼ばれる、フロイトもウナギに魅了された人。1877年.ウィーン大学で医学を学んでいたフロイトは、奨学金をもらいイタリアの研究所を利用する許可を得て、はじめて独自の研究を行います。そしてそのテーマがウナギの精巣を見つけることだったのです。後に彼が主張する潜在意識とウナギの精巣はかけ離れたテーマですが、どちらもたくみに隠されていた、という点では共通しています。そして、ウナギがどのように子供を作るのかは、当時の科学者、研究者にとってはどうしても解き明かしたい、最大の課題のひとつだったのです。でも、フロイトも結局、ウナギの精巣について確かな結論はだせなかったようです。現在でも養殖ウナギを産卵させることは出来ないといわれています。

ヨーロッパとアメリカに住むウナギは、すべて同じ海で生まれているそう。それが、大西洋の真ん中、あのバミューダー・トライアングルのあるサルガッソーという海域で生まれています。このサルガッソー海域で生まれたウナギの稚魚が、潮の流れに乗ってヨーロッパか北米の川へ運ばれるのです。その川で成長すると、今度は産卵のため生まれ故郷のサルガッソー海域への長い旅に出ます。旅の前にウナギはまず餌をたっぷりと食べて脂肪を蓄え、海の生活に適応するために変態、身体の仕組みを代え、旅の途中は何も食べないそうです。そして、海で産卵をすると一生を終えるそうです。川で生まれて川に帰るサケのような魚とは、まったく逆の一生を送るのです。

なお、『ウナギのふしぎ』(リチャード・シュヴァイド=著 梶山あゆみ=訳 日本経済新聞社)は、ウナギの不思議な生態や人との係わり合いについて丹念な取材を重ねた興味深い1冊です。

2008/07/23

“本当の”ギムレットはかなり甘い

1888年の7月23日、作家レイモンド・チャンドラーが誕生しています。

チャンドラーといえば、カクテル、ギムレットが有名ですが、このカクテルは1890年にインド洋を航海していたイギリス海軍の軍艦の上で誕生したといわれています。当時のイギリス海軍では、将校にはジン、船員にはラムの水割りを毎日配給していました。しかし、ジンだけで飲んでいたのではすぐに酔ってしまうし、健康にもよくない。そこで海軍の軍医、ギムレット卿が健康のためにジンをライム・ジュースで薄めて飲むように提唱。これがギムレットの始まりとなりました。

イギリス海軍で生まれたカクテルですから、ジンは当然イギリス製、しかも軍の港があるプリマスのジンを使用するのがオリジナルです。ライム・ジュースはイギリスのローズという会社のコーディアル、つまり保存のために砂糖を加えて瓶詰めにしたものを使うのが元々の作り方でした。

チャンドラーの小説『長いお別れ』にこんなセリフが出てきます。

「ほんとのギムレットはジンとローズのライム・ジュースを半分ずつ、ほかには何も入れないんだ。マルティニなんかとてもかなわない」(清水俊二=訳 ハヤカワ文庫)

現在ではライムを搾ったフレッシュ・ジュースに砂糖を加えて作るのが主流ですが、この作り方だと色が白く濁ってしまいます。少量の甘みがあり、色が透き通っているギムレットを作るには、やはりコーディアルのライム・ジュースを使うというバーテンダーもいます。ただし、ローズ社の製品は日本ではなかなか手に入らないので、国産メーカーのものを使用しているバーが多いです。また、チャンドラーの小説にあるようにライム・ジュースとジンを半分ずつ入れると、現代の我々にはかなり甘ったるく感じらと思うのでやや控えめにした方が無難かもしれません。。

ところで、「ギムレットには早すぎる」という有名なセリフ。これはフィリップ・マーロウが言ったと思い込んでいる人がいますが、そうではありません。気になる方は『長いお別れ』を読んで確認してみてください。

2008/07/22

一度にボトル1本文のラムを飲み干した“パパ”

昨日に続き、ヘミングウェイとお酒、そしてキューバについていくつかお話します。

1940年、ハバナに居を定めたヘミングウェイは、亡くなる直前までのおよそ20年間をこの地で過ごしました。その長い間、ヘミングウェイが自宅のサロンのように寛いでいた酒場が『フロリディータ』。この店で生まれたカクテルがフローズン・ダイキリです。ダイキリはキューバにあるダイキリ鉱山で生まれたスタンダードカクテル。この鉱山で働く技師たちがキューバで手に入りやすい、ラム、ライム・ジュース、砂糖で作ったのが始まりだと言われています。

このカクテルはスペインに統治されていた時代から飲まれていましたが、正式にダイキリという名前が付けられたのは1900年のこと。100年以上の歴史がある由緒正しきカクテルなのです。

そして1910年代に入ると『フロリディータ』の優秀なバーテンダー、コンスタン・リバイラグアがダイキリをより洗練されたカクテルにするためにさまざまな改良を加え、ハバナの酒飲みたちの間で好評を博していました。1930年代に入りアメリカで調理用ミキサーが開発されると、コンスタンテは、自分の考えた自慢のダイキリを、フラッペ・スタイルで提供し始めます。ソーサー型のシャンパングラスに細かく砕いた氷、クラッシュドアイスを敷き詰め、そこにシェイクしたダイキリを注いだのです。彼はこのカクテルをフローズン・ダイキリと名づけました。今日フローズンと名前が付くカクテルはたくさんありますが、すべてはダイキリから始まったのです。

このフローズン・ダイキリをこよなく愛したのがヘミングウェイでした。彼は昼ごろに執筆活動を終わらせ、『フロリディータ』にやってくると、砂糖抜きのフローズン・ダイキリをダブルで作らせて飲んでいたため、いつしかそれは「パパ・ダブル」と呼ばれるようになりました。しかもヘミングウェイは一度に12杯ほど飲んだと言われています。一般的にカクテル1杯作るのに使うベースのお酒は30ml。ダブルなら60ml。それが12杯なら720mlで、ほぼボトル1杯分になります。しかもヘミングウェイは帰りのクルマのなかでも飲めるよう魔法瓶を持参していたというから驚きです。

なお、ヘミングウェイが砂糖抜きのダイキリを注文したのは、彼がドライな味を好んだということと、もうひとつ、糖尿病であったことも理由のひとつだと考えられます。

2008/07/21

ヘミングウェイが愛したワイン、タヴェル・ロゼ

今日はアーネスト・へミングウェイの誕生日。1899年7月21日、シカゴ郊外オーク・パークで外科医の父親と音楽家の母親からこの偉大な作家は生まれました。

ヘミングウェイと言えば、お酒を愛した作家であり、作品の中にもお酒に関する話がたくさんでてきます。今日は休日、しかも“パパ”が愛した海の日でもあるので、へミングウェイとお酒についていろいろお話してみます。お休みの方は一杯やりながらお付き合いください。

今日のトークで参考にさせて頂いたのが、タイトルもズバリ『ヘミングウェイの酒』(オキ・シロー=著 河出書房新社)という本です。全日空、ANAの機内誌『翼の王国』でそのお名前や文章を読んだことのある方も多いと思いますが、オキ・シローさんは酒にまつわるおしゃれで悲しいエッセイ、あるいはショートストーリーを得意としている作家です。そのオキさんが若い頃から憧れていたヘミングウェイ自身の酒の飲み方、あるいは作品のなかに登場するカクテルやリキュール、ワインなどについて紹介しながら、今や死語になりつつあるダンディズムについて、さらりと語ってくれる、お酒好きにはぜひ勧めたい1冊です。

このエッセイの中に「ロゼ・ワイン」という1章があります。ヘミングウェイはもちろんワインが大好きで、後に女優となった孫娘には、ボルドー五大シャトーのひとつシャトー・マルゴーからとってマーゴ・ヘミングウェイと名付けたほどです。

また「ワインは、世界中で最も文明的なものであり、最も完成された自然である。」と小説の中に書き残しています。
そんなヘミングウェイがこよなく愛したワインが、フランス南部、ローヌ川流域で作られるタヴェル・ロゼでした。タヴェルは、ワイン生産地には珍しく赤でも白でもなくロゼしか作っていません。しかしタヴェル・ロゼは世界的に名が知られており、フランスの三ツ星レストランのメニューに載っているロゼはタヴェルのものだけなんだそう。また、18世紀、ブルボン朝最盛期の王で、「太陽王」と呼ばれたルイ14世が愛したワインとしても知られています。

グルナッシュという黒ブドウを主体に作られるタヴェルは、ロゼとしては辛口で色は比較的濃いピンク色。熟成が進みやすいため、比較的若いうちに飲めるのも特徴で“太陽で焼かれた岩のような風味”とも形容されています。へミングウェイは特に晩年、タヴェルを好んで飲んだようで、彼の死から25年後に発表された遺作『エデンの園』の中にも、このワインを登場させています。その中にはタヴェルについて「恋人たちには素敵なワイン」と書いてある一文もあります。

このタヴェル、小売だと1本2,0003,000円。今夜の食卓に加えてみてはいかがでしょうか。

2008/07/18

ヴァルター・グロピウスとマーラー、そしてアルマ

21日まで上野の東京芸術大学美術館で開催中の「バウハウス・デッサウ展」。デザイン史に残る伝説の造形学校「バウハウス」の創始者の一人が建築家でもあるヴァルター・グロピウスです。インターナショナル・スタイル(国際様式・国際建築)の提唱者としても知られるグロピウスは、ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に近代建築の四大巨匠と言われています(でも、三大巨匠になると彼の名前は外されることが多い)。

1883年ベルリンに生まれたグロピウスは写真を見るとなかなかハンサムで、女性にもかなりもてたよう。そんな彼と一人の女性を巡って相対したのが晩年のマーラーでした。マーラーの妻アルマと言えば、音楽史上稀にみるミューズにしてファム・ファタル、魔性の女として知られています。20歳近くも年齢差のあったマーラーとアルマの夫婦関係は、マーラーの「我儘な性格」もあり、決して良好なものではありませんでした。そんな中でアルマと深い中になったのが新進気鋭の建築家グロピウスでした。グロピウスはアルマへの恋文を意図的にマーラー宛に出したりするなど、大胆な行動に出ます。

若い妻の不貞に悩んだマーラーはある日アルマとグロピウスを呼び、アルマに「君の好きなようにしたまえ」と告げ、選択を迫りました。この時、アルマはマーラーを選んだもののグロピウスとの関係も秘かに続けていたのです。

マーラーは悩み、フロイトの診察を受けたこともあります。この時期にマーラーが取り組んでいたのが未完に終わった交響曲10番であり、その楽譜には老いて、己の運命を嘆くマーラーの悲痛な思いが言葉となって残されているそうです。なお、マーラーの死後、アルマは他の男性との恋愛を経てグロピウスと結婚。しかし、この結婚生活も長くは続きませんでした。2人の間にできた娘マノンは聡明で美少女だったが若くして亡くなりました。マノンのことをことのほかかわいがったのが作曲家のアルバン・ベルクであり、ベルクはマノンの死後に、彼女を偲んでヴァイオリン協奏曲「ある天使の追想に」を作曲しました。

2008/07/17

亡き王女、とは誰なのか?

ピアノ独奏で聴いても、オーケストラ演奏で聴いても美しい曲、それがラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」です。ラヴェルがこの曲をピアノ曲として作曲したのは1899年、24歳の彼はパリ音楽院に在学中でありフォーレの元で作曲を学んでいました。フォーレはラヴェルたち生徒を貴婦人たちが集まる華やかな社交の場に連れ出しましたが、そこで出会ったエドモン・ド・ポリニャック公爵夫人という大パトロンに依頼されたのが作曲のきっかけだったそうです。

この曲は専門家の間では過小評価されましたが、サロンでは大きな支持を得ました。

ところで、題名にある「亡き王女」とは誰なのでしょうか。気になって調べてみると、「スペインの王女である」という説が有力でした。もっともラヴェルが王女の訃報を知り作曲した訳ではありません。その王女は17世紀のスペインの宮廷画家ディエーゴ・べラスケスが描いた肖像画のなかの人物だったのです。

王女の名前はマルガリータ・テレサ。1651年、時のスペイン国王フィリップ4世の娘として生まれました。彼女は政略結婚のため生まれたときから、実の叔父である・ハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝、レオポルト一世の婚約者となります。そこで、国王のお気に入り画家だったベラスケスによってマルガリータの肖像画が数年おきに描かれ、婚約者であるレオポルド1世の元に贈られました。お見合い写真のようなものですね。彼女は14歳でウィーンへ嫁ぐのですが、21歳の若さで亡くなってしまいました。

ベラスケスがマルガリータを描いた肖像は6点が現存していて、そのうちの1点、3歳の頃の肖像画がルーブル美術館に所蔵されています。この絵からインスパイアされて、ラヴェルが作曲したというのが、「亡き王女=マルガリータ」説。実際、ラヴェルはこの曲を「かつてスペインの宮廷で小さなプリンセスが踊ったかもしれない小曲」と語ったこともあるそうです。

なお、ラヴェルはフランス南西部、スペインとの国境に近いバスク地方に生まれ、母親はバスク人でした。そのためスペインに対して強い憧れと愛着をもっていたといわれています。

そんなラヴェルの名曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」を清水和音さんのピアノと、東京フィルのオーケストラ演奏で聴き比べるコンサートは今週土曜日、19日の開催。詳しくはトークをお楽しみにしてください。

2008/07/16

ピロスマニ、百万本のバラ、そしてワイン

8月17日(日)まで、渋谷の文化村・ザ・ミュージアムで開催されている絵画展「青春のロシア・アヴァンギャルド」。この中で僕がもっとも強く惹かれたのがニコ・ピロスマニとい画家の作品でした。

1862年グルジアに生まれたピロスマニは独学で絵を学び、放浪生活の中で黙々と素朴な絵を描き続けた孤高の画家。彼の作品の多くは荒野にたたずむ動物たちや食卓を囲むグルジアの人々を描いたもの。その素朴でシンプルな作風はプリミティヴィズム(原始主義)に属するものと考えられています。フランスの画家ルソーとも対比されたピロスマニですが、生前、彼の作品は居酒屋の看板に使われた程度で、ギャラはその居酒屋での飲み代程度だったと言われています。

“出世や名誉には興味を示さず、ただパンとワインのために絵を描きながら放浪生活を送った画家”

ちょっと羨ましい生き方のような気もします。

彼は1918年、貧困のうちに56歳で死去しましたが、死後グルジアでは国民的画家として愛されるようになり、紙幣にも顔が印刷されています。ロシアをはじめとした各国でも有名です。

今回展示されているのは10点、いずれも1910年代、彼の晩年に描かれた作品。『宴にようこそ!』『小熊を連れた母白熊』『タンバリンを持つグルジア女性』など、その作品は洗練されているとは言いがたいですが、素朴な味わいの中に、ひとめで強烈な印象を残す力強さが宿っています。

ところで、僕ら日本人は意外なところで彼の人生に関するエピソードを耳にしています。シンガーソングライターの加藤登紀子さんの名曲、『百万本のバラ』は皆さんよくご存知だと思います。

女優に恋をした貧しい画家が街中のバラを買い集め、彼女の部屋の窓から見える広場に敷き詰めます。でも女優はそれをお金持ちの悪ふざけだと思い、そのまま街を出て行ってしまった、という切ない内容の歌ですよね。

そして、この歌詞にでてくる貧しい画家こそ、ピロスマニなのです。ピロスマニはある日、彼の町を訪れたフランス人女優マルガリータに強く心惹かれます。彼は自分の愛を表すために彼女の泊まるホテルの前の広場を花で埋め尽くしたそう。この伝説はアンドレイ・ヴォズネセンスキーという人の詩によって有名になり、歌となってロシアでヒットしました。加藤さんはお兄さんがロシアから持ち帰ったレコードでこの曲を聴き、自ら訳詩してレコーディング。彼女の代表曲となりました。

また、ピロスマニはその放浪生活や女優への片思いなど、エピソードが豊富なためか、これまで2度映画化されているそうです。彼の名を冠したグルジアワイン「ピロスマニ」も有名。『世界名酒事典20082009年版』(講談社)によれば、このワインはグルジアのブドウ、サペラヴィ種を100%使用、しかも。ブドウを遅摘みしているため、やや甘口の赤ワインとなっているそうです。販売価格は1,700円でした。

2008/07/15

ローマの馬車問題

今日は日本とイタリアの文化交流サロン「アッティコ」の協力でイタリアの筍のネタをお届けします。

ローマやフィレンツェなど、イタリアの古き良き観光都市を象徴する乗り物が馬車。歴史的な建造物や文化遺産が多く残る街ならではの観光の目玉のひとつです。

しかし先日、動物愛護協会が観光客へ「馬車に乗らないように」と呼びかけ、それに対し各国の動物保護団体が同調したことから論争に発展しました。

街の中心部が限られていて車両の通行が少ないフィレンツェならまだしも、交通量が多く、坂道の多いローマ市内の道路で馬車を走らせるのはあまりにも酷だというのが、動物愛護協会の主張です。「利用する観光客がいるから馬車がなくならない。需要がなければ過酷な状況で働かされる馬を保護できる」という主張なのです。

通常1頭の馬が走る速度で引くべき重量は17kgが妥当、らしいですが、観光馬車を引く馬にかかる負荷は馬車と旅行客を含むと700kgにも及ぶそう。しかも排気ガスが充満する交通量の多い一般道路を走らせています。気温が高くなる6月から9月半ばの13時から17時は馬の健康を考慮し、営業してはいけないことになっているにも関わらず、それすら守られていないと、協会は指摘しています。本来なら交通ルールを取り締る市警察がコントロールすべきなのですが、馬車までは手がまわらないというのが現状。

こういった過酷な中を走らされている馬たちの寿命は非常に短いらしく、心臓麻痺の恐れもあるのだとか。馬車を引く馬たちは夜になるとローマ市内の厩に戻されますが、雨が続くと仕事は無いので厩から出させてもらえません。しかもその間、定期的に牧場に放して運動させることもないのだとか。猛暑の中を何人ものツーリストを乗せ、息荒く辛そうに馬車を引く馬をよく見かけます

この馬車問題、思いもよらず大きな論争に発展してしまったことから、ローマ市長は、引退した馬を引き取り、国内の自然公園で面倒見ることを提案。いったん論争はおさまったものの、馬車をなくすべき、というのが動物愛護協会の意向です。ちなみにローマ市内の主要観光地を馬車で40分程度まわった場合の料金は150ユーロ前後(26,000)。人にも馬にも優しい値段とは言えませんね。

2008/07/14

クリムトとベートーヴェン

1862年の7月14日、画家グスタフ・クリムトがウィーン郊外のバウムガルテンに生まれました。彼は、世紀末ウィーンの前衛的芸術家集団、ウィーン分離派の初代会長です。ウィーン分離派とはそれまでの保守的、古典的な美術家組合を嫌った若い芸術家達によって1897年に結成されたグループ。彼らは因習に囚われない若い芸術家たちに対して定期的に作品を展示する機会を与え、なおかつ外国の素晴らしい芸術家による作品をウィーンに持ち込み広く人々に見てもらうことを活動の主な目的としました。

そこで、彼らは自ら分離派展示館を建設し、定期的に展覧会を開催したのですが、この展覧会の中でクリムトの代表作のひとつ「ベートーヴェン・フリーズ」が生まれています。フリーズ(FRIEZE)とは横長の帯状装飾のことで天井に近い壁の高い部分に、部屋をぐるりと取り囲むよう設置された壁画のようなもの。日本の襖絵や障壁画に近いものと考えられます。

「ベートーヴェン・フリーズ」は展覧会会場の壁のコの字型三面に描かれ、高さ約2.5メートル、全長およそ34メートルにもなる大作。左側の第一の長壁の左端から始まり、部屋を右回りにグルッと巡るように三面の壁に描かれています。そこに描かれた絵は交響曲第9番合唱によって、ベートーヴェンが表現した人類の苦悩と救済を視覚で表現したものなのです。

彼が芸術家として活躍した19世紀末ウィーンは、ハプスブルク家の支配の下で形成されてきた中世以来の古い体質を打ち破り近代都市へと生まれ変わろうとしていました。芸術の分野でも保守、伝統を打ち破り新しい価値観を提唱する動きが盛んだったのです。そんな気運のなか、彼らは先輩ワーグナーが提唱した総合芸術への回帰をひとつの目標としました。

ワーグナーは芸術が音楽・演劇・美術といったジャンルに細かく分けて考えられることによって、芸術が本来持っていたはずの力を失っていると指摘し、それらが一体となったギリシャ悲劇のような芸術のありかたを再び取り戻そうと主張。そこから音楽と演劇が一体となった楽劇を創造しきました。

そんなワーグナーの理念に触発された世紀末ウィーンの芸術家たちにとって、シラーの言葉とベートーヴェンの音楽が融合した第九は、まさに総合芸術の模範でありベートーヴェンこそ総合芸術の開祖、憧れのヒーローだったのです。

そして、1902年に開催された14回目のウィーン分離派の展覧会のテーマがまさにベートーヴェンであり、そこにクリムトは「ベートーヴェン・フリーズ」を出展しました。

クリムトとベートーヴェン、一見何の共通点も無いようですが、この大作は人間の苦悩と再生、そこからしか生まれない喜び、というものについて深く考えた2人の芸術家の時間を越えたコラボレーションだったのです。なお、今日のブログは先日もご紹介した文庫『マーラーと世紀末ウィーン』(渡辺裕=著 岩波現代文庫)を参考にさせて頂きました。お勧めの1冊です。

2008/07/11

神戸国際芸術祭2008  美しき青きドナウ

次の日曜日13日から19日の土曜日まで、神戸国際芸術祭が開催されます。3回目となる今年のテーマは「美しき青きドナウ」。ヨハン・シュトラウス2世、モーツァルト、シューベルト、シューマン、ブラームスなど、主にハプスブルグ帝国の元で活躍した音楽家たちの室内楽(アンサンブル)が演奏されます。

この芸術祭は一部のクラシック愛好家のためだけの閉ざされたコンサート運営を目指すものではありません。広く一般市民に向けて音楽の楽しさ、コンサート会場へ足を運び体験することの喜びを伝えたいという理念に支えられた地域密着型のイベントです。そのためメインのコンサートの他、市内各地域の区民ホールを活用したコンサート、あるいは小学生を対象にした演奏会も開かれます。さらにはホールボランティアやアートマネジメントに興味のある人、自分たちでコンサートを開いてみたい人などを対象としたセミナーなども開催し、生活のなかの音楽、芸術を市民に提供する試みも行っています。

また、神戸大学が中心となり、学生と市民による手作り感覚を大切にしているのもこの芸術祭の大きな特徴のひとつ。まさに「創造都市への挑戦」ですね。

今回のコンサートププログラムは室内楽が中心となっていますが、何故、ジャズや華やかなオーケストラではなく、比較的地味な室内楽を選んだのでしょうか。その理由を同イベントのホームページに掲載されている実行委員長の言葉から抜粋してご紹介します。

「室内楽が現代の社会にとって無くてはならない芸術ジャンルである、という信念があるからです。室内楽は、音による親密な「対話」を大切にする芸術です。視覚を刺激する情報が氾濫し、音の洪水に押し流される日常生活の中で、他者との、そして自分自身との静かな対話の時が、にわかに失われています。だからこそ「聴覚」を自由に開いて集中させ、それぞれの心の中に「像」が結ばれ、紡がれ、変化してゆく、いわば「室内楽的」時間を取り戻すことが求められます。」

オッターヴァのコンセプトにも相通じるものがあるなぁ、と感じました。

さて、3回開催されるメインコンサートのなかで、19日(土)の公演はチケットが完売。15日(火)と16日(水)はまだ席が残っているようです。

詳しくはホームページでチェックしてください。

神戸国際芸術祭 

http://kulturtage.jp/ja/pcサイト)

ヘーベルハウスの展示場でottavaのCDをプレゼント中です

夏の扉がもうすぐ全開しそうな日本列島。でも、日本人は昔から夏を涼しく過ごす工夫をいろいろとしてきました。朝夕の打ち水、涼を呼ぶ浴衣etc.

この番組のスポンサーであるヘーベルハウスはこのような「ちょっとした工夫でラクに続けられる心地よいエコライフ」に大賛成。展示場ではヘーベルハウスの「夏を涼しく過ごす知恵」が体感できます!また、7月21日(月・祝)まで展示場では特製「ゾウ小紋柄風呂敷」で包んだ「夏を涼しく過ごす知恵セット」をプレゼント中です。「夏を涼しく過ごす家づくり」のヒントが満載のカタログセットなどが入っていますが、その中にはottavaが製作したクラシック・コンピレーションCDもあり、「耳も涼しい」をコンセプトに涼感のある名曲がコンパイルされています。

「そろそろ、あるいはいつか家を建てたい、建て替えたい」と思っている方、ぜひ足を運んでみてください。

ヘーベルハウス

www.asahi-kasei.co.jp/hebelpcサイト)

2008/07/10

「コントラポント」コンサート

ヴォーカル・アンサンブル「カペラ」のリーダーであり、日本における宗教音楽、ルネサンス音楽の第一人者でもある花井哲郎さんが率いるもうひとつのユニット「コントラポント」のコンサートが7月21日(月・祝日)に開催されます。

コントラポントとは「対位法」を意味する16世紀のイタリア語。1617世紀の教会音楽の基盤になっている技法のひとつです。映画でも、映像が見せる感情とはまったく反対の音や音楽を付けること、つまり悲劇的なシーンで優雅な音を流したり、逆にのどかな映像に悲しげな音を流したりすることで映像の感情を深める演出方法があり、黒澤明監督が得意としていましたが、これを画と音の”コノトラプンクト”(対位法)と言います。

「コントラポント」は後期ルネサンスとバロックの音楽をレパートリーとする、声楽・器楽の古楽アンサンブル。17世紀を中心に、その前後数十年のヨーロッパ各国の作品を取り上げています。「カペラ」はまったく楽器を使わない声楽のみのアンサンブルなのに対し、「コントラポント」は楽器を使用するのが特徴であり、花井さんが指揮をしながらチェンバロとオルガン、あるいはレガールと呼ばれる小さな鍵盤楽器を引き分けます。ですから「カペラ」に比べ「コントラポント」の奏でる音はより重層的で荘厳な響きです。

21日のコンサートではフランス・バロックを代表する作曲家マルカントワーヌ・シャルパンティエの曲を取り上げます。17世紀フランスの最も偉大な作曲家の一人であるシャルパンティエの作り出した音楽はバロック的で劇的な歌詞の表現が随所にみられるのが大きな特徴。なかでも今回の演奏プログラムのメインである「サウルとヨナタンの死」はシャルパンティエの才能と音楽的特長がよく表れた作品。旧約聖書に登場する紀元前10世紀頃のイスラエル王国最初の王、サウルとその息子ヨナタン、そしてダビデ王を巡る悲劇を題材にしたこの作品はフランス・バロックの様式美がいかんなく発揮された傑作オラトリオです。ドラマティックなまでの感情表現が聞くものの心を揺さぶるはず。その他、「聖母の祝日のためのモテット」など宗教音楽家シャルパンティエの本領が存分に発揮された美しい聖母賛歌も楽しめます。

♫「コントラポント」コンサート

2008721日(月祝)午後3時 トッパンホール

http://www.fonsfloris.com/c/schedule.html (PCサイト)

2008/07/09

「フーガと神秘」 ピアソラ、中山可穂

7月9日はアルゼンチンの独立記念日。いつもよりタンゴを多めに聴いて頂きたいと思います。

アストル・ピアソラに「ブエノスアイレスのマリア」という名曲があります。これはタンゴ・オペリータと呼ばれているのですが、オペリータとはピアソラ自身が付けた名前で“小さなオペラ”という意味。イタリアがオペラを創造し、オーストリアがオペレッタを、アメリカがミュージカルを作ったように、自分たちが作った「オペリータ」が、アルゼンチンにとって新しいものの始まりとなるかもしれない、とピアソラは語っています。

「ブエノスアイレスのマリア」は演奏と歌、そして吟唱(語り)で構成され、「タンゴ」という音楽を「マリア」というひとりの女性に投影して、その一生や死後を描いた作品。この中に「フーガと神秘」という演奏だけの曲があります。バンドネオンからギター、フルート、そして他の楽器へとフーガが展開されていくタンゴであり、クラシックでもある名曲ですが、実はこの曲をタイトルにした小説があります。

それは作家、中山可穂さんの短編小説集『サイゴン・タンゴ・カフェ』(角川書店)の中に収められた1作。この小説集に収められている5つの作品はいずれもタンゴをモチーフにしていますが、3つの作品がピアソラの曲から題名をとっています。

商社のブエノスアイレス営業所で上司と恋に落ち、ひどい裏切りをされた女性がその男の葬儀で取った思わぬ行動を描いた「現実との3分間」。

「ドブレAの悲しみ」はバンドネオン奏者に拾われた猫の視点で殺し屋の悲しい恋を綴った物語。この小説によれば(だからフィクションかもしれませんが)、アストル・ピアソラは左右の足の長さが違っていて、立ったまま片方の膝の上にバンドネオンを載せて演奏する彼独特のスタイルはそのために生まれたのではないかと推測されているそうです。
そして「神秘とフーガ」はタンゴダンサーになるためアルゼンチンへ渡った娘と、彼女の結婚式に出席するため訪ねてきた母親との一夜の“事件”を描いた物語。

「タンゴって何だか物悲しい、音楽もダンスも」

「仄暗い情念の世界だよね」

小説の中に母娘のこんな会話がありますが、母と娘2代にわたってフーガのように繰り返される残酷な因縁、そしてそれでも前向きに生きようとする人間の姿をピアソラのタンゴに重ね合わせて描いた小説です。

一般的な恋愛小説とは一線を画した中山ワールド全開の小説集。湿気が肌にまとわりつくような夏の夜に濃厚な蒸留酒でも飲みながらゆっくり読んでください(一気に読むとかなり疲れます)。

なお、中山さんがブエノスアイレスを訪ねた紀行エッセイが雑誌『野性時代』(200611月号 vol.36)に掲載されていますが、こちらも機会があったら読んでみてください。

2008/07/08

『MORO・NO・BRASIL』

昨年に続き来日コンサートを開いてくれたブラジルの音楽家エグベルト・ジスモンチ。今日は午前中からTBS内に缶詰状態。オッターヴァをはじめ、各メディアのインタビュー取材に応じてくれています。忙しいなか、時間を割いてくれたジスモンチに敬意を示す意味でも、今日はブラジル音楽のルーツに迫ったドキュメンタリー映画『MORONOBRASIL』という作品を紹介したいと思います。

“ブラジルに生きる”という意味のこの映画は2002年に製作されたドキュメンタリーです。監督はフィンランド生まれのミカ・カウリスマキ。このカウリスマキ、という名前にピンときた人はかなりの映画通。そう、2002年に『過去のない男』でカンヌ国際映画祭グランプリを受賞した映画監督アキ・カウリスマキのお兄さんです。1955年生まれのミカ・カウリスマキは30年以上も前、自分が持っていたディープ・パープルのレコードと交換で1枚のブラジル音楽のレコードを手に入れ、その音楽に魅せられます。大人になり映画祭でリオ・デ・ジャネイロを訪れたことをきっかけに、音楽だけでなく土地や人々にさらに魅了された彼は2000年、雪の降り積もるフィンランドを飛び出し、ブラジル音楽のルーツを探るべく4,000キロの旅に出ました。

そして旅のなかでさまざまな音楽と地方色豊かなミュージシャン、ダンサーたちと出会い自分の人生を再発見していきます。ブラジル音楽のルーツは先住民インディオの音楽にあります。彼らの音楽がアフリカから連れて来られた黒人奴隷の音楽と出会いやがてサンバが誕生しました。と、文章にしてしまえば簡単で分かりやすいことですが、この間には500年以上の時間、そして搾取され虐げられてきた人々の音楽にすがる思いが隠されているのです。この長い時間を要したブラジル音楽の流れをミカ監督は自らが案内人となって辿っていきます。

『モロ・ノ・ブラジル』で示されているのはブラジル音楽の大きな流れであり、同時に多様性でもあります。それはまるでアマゾンという大きな川が、実はいくつもの細い支流に枝分かれしていることと似ているのかも知れません。そして、この映画はボサノバとサンバだけでブラジル音楽を語ることの短慮を改めて教えてくれる、示唆に富んだ作品です。やっぱりドキュメンタリーは素晴らしい!。

2008/07/07

『マーラーと世紀末ウィーン』

1860年の今日、7月7日はグスタフ・マーラーが誕生した日です。今でこそ偉大な作曲家として知られているマーラーですが、彼が生きていた間はむしろ指揮者として成功した人物でした。彼が指揮者として活躍した19世紀末のウィーンは歴史上他に類をみないほど文化的な成熟を見せ、「世紀末ウィーン」という言葉に代表されるような、一種独特の輝きと退廃が街を支配していました。そんな19世紀末ウィーンの文化史全体のなかでマーラーの作品の真の新しさや面白さをとらえた興味深い本が『マーラーと世紀末ウィーン』(岩波現代文庫)という1冊です。

著者の渡辺裕さんはマーラーとほぼ同じ時代にウィーンで活躍した画家のクリムト,精神分析医のフロイト、建築家のオットー・ワーグナーらの活動をも視野に入れ,独特の文化が花開いた19世紀末ウィーンの社会的状況、そのなかで彼らが目指した総合芸術というものの理念、マーラーが音楽で表現しようとした総合芸術について、非常に分かりやすく解説してくれます。

19世紀末、それまでハプスブルク家の支配の下に中世以来の古い体質を保ち続けていたウィーンは近代都市へと生まれ代わり新しい都市文化が形成されはじめていました。その中心となったのが新興勢力であったブルジョワ階級の人々でした。彼らは文化の担い手となることを望み、かつての貴族文化の象徴でもあったオペラとその上演を自分たちのものにするため、次々と歌劇場、オペラハウスを建てていきました。つまりこの時代の音楽家、とくに指揮者は引く手あまた、完全な売り手市場でした。その状況を利用し、指揮者として出世街道を登っていったのがマーラーだったのです。

ただし、マーラーは最初から指揮者を目指していたのではありません。彼は音楽院を卒業した直後にベートーヴェン賞という作曲賞に応募したのですが、応募作品の「嘆きの歌」が極めてワーグナー風であったため、反ワーグナーの急先鋒であった保守的な審査員たちの反対にあって落選してしまいます。もしこのとき彼がベートーヴェン賞を受賞していたら音楽史はまた違ったものになっていたのかもしれません。

今日はこの『マーラーと世紀末ウィーン』という本を参考にマーラーという人物像の一端を紹介したいと思います。

2008/07/04

シエナのパリオ祭り

72日、イタリア、トスカーナ州のシエナで、パリオ祭りが開かました。パリオとは、競馬レースのこと。イタリア各地で行われていますが、なかでも有名なのがシエナのレースで7月2日と8月16日の2回開催されます
7
2日はシエナに聖母マリアが出現したとされる日で、816日は聖母被昇天祭。聖母マリアの死後、魂が身体に戻され、天使たちに取り囲まれながら天に召されていったことを意味し、絵画の重要な主題のひとつ。

競馬が開かれるのは、シエナ市の中心にある扇型のカンポ広場。シエナは全部で17のコントラーダと呼ばれる地区に分かれていますが、レースに出場できるのは、10地区のみ。地区を代表する騎士たちが裸馬に乗り、広場を3周します。

競馬の場合、騎手が落馬すれば失格ですがシエナのパリオは、騎手がいなくても、最初に3周してゴールした馬のコントラーダが優勝です。各コントラーダには、名前がついていて、シンボルが決められています。例えばチベッタ(フクロウ)、ドラゴ(竜)など。勇ましく、強そうで、速そうな名前が多いのですが、なかには、タルトッカ(亀)、キオッチョラ(カタツムリ)など、どう考えても、遅そうなシンボルもあります。

競技当日、カンポ広場では競技に先立ちパレードが行われ、中世の衣装を身につけた鼓手の巧みな演奏と旗手による旗を回転させる操り芸が披露され、そのあとに騎手と馬が続き、最後に優勝旗パリオが登場します。すると人々はパリオに向かって一斉に自分たちのコントラーダのスカーフを振ります。そして優勝したコントラーダにのみ、聖母像が描かれた優勝旗が与えられます。これこそが、このお祭りの名誉。これを得るために住民は必死になるのです。優勝した地区は、それを、それぞれの地区がもっているコントラーダ美術館に収め、大切に保管するのです。

さて、今年のパリオでは、試験的に写真判定が取り入れられましたが勝ったのは、イストリチェ(ヤマアラシ)だったとのことです。

ヘーベルハウス 

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2008/07/03

『現代アート入門の入門』

昨日に続き、現代アートをより身近に感じられる新書を紹介します。『現代アート入門の入門』(光文社新書)は200210月に発売されていますが、売れ行きが好調のようで、すでに3刷りまで重版されています。サイクルの早い新書のなかでは、ヒット作と言っていいと思います(でも一部データが古いままなのは残念)。

著者の山口裕美さんの肩書きはアートプロデューサーにして自称「現代アートのチアリーダー」。現代アートの現場を見続けてきた立場から日本と世界のアートシーンとその歴史、今見るべき作品、行く価値のある美術館、あるいは作品を見るときのちょっとしたポイント、お勧めの現代アーティストたちまでをコンパクトに紹介してくれます。

「現在(6年以上前の時点)、日本の国内で発表される現代アート作品の80%は見るに値する作品であるかどうか疑わしい。残りの20%もダイヤモンドではあるが、決して磨かれているとは限らない」とかなり厳しい評価を下す山口さん。自分の審美眼によほど自信をもっている人なのだと思いますが、この強気の発言も現代アートを愛するが故の苦言と思って読み進めてください。

そして読んでいけば世界と比較して劣悪な環境に置かれている日本の若いアーティストたちを応援したいという山口裕美さんの情熱が充分に伝わってくる内容になっています。

日本人の西洋絵画との出会いは印象派から始まりましたが、その印象派崇拝が強すぎるあまり21世紀になったいまでも、「外国人アーティストばかりを有り難がり、日本人アーティストをリスペクトしない」日本のアート市場を憂い、その結果日本人アーティストも海外のアーティストと同じような作品を作ったため、“バナナ”と揶揄されていたことなどを紹介しています。バナナとはつまり表肌は黄色いのに中身が西洋化されてしまい、日本人としてのアイデンティティを失ってしまったという意味です。

そんな状況を打開するべく、日本のアーティストを支援するNPO法人を立ち上げた著者が、アーティストたちに送るエールは一途であり、ときに首を傾げてしまうこともあるのですが、読後感は爽やかですよ。

♫山口裕美さんが主宰する現代アート応援サイト

www.so-net.ne.jp/tokyotrash/(pcサイト)

♫インターネットでアートを購入

タグボートwww.tagboat.com(pcサイト)

♫コントラポントのリサイタル

 www.fonsfloris.com/c/schedule.htmlpcサイト)

2008/07/02

『現代アートビジネス』

今日も数ある東京のギャラリーでは現代アートの企画展が開催されています。新しいビルがオープンすれば、必ずと言っていいほどギャラリースペースが設けられ、高級ブランドが積極的にアーティストをサポートしている現在、東京、そして日本には現代アートが溢れていると言っても過言ではありません。

その一方、「現代アートはよくわからない」「現代アートは胡散臭い」「どうして村上隆の作品はあんなに高く売れるのか?」など、現代アート、あるいは今のアートを取り巻く状況に疑問を持っている人も多いと思います。

そんな分からない、分かりにくい、あるいは怪しげな現代アートをもっと身近に感じられるようにと書かれたのが、『現代アートビジネス』(アスキー新書)という1冊。といってもこれは現代アートを楽しむ、理解するための鑑賞のポイントを押さえた美術解説書ではありません。

村上隆さんや奈良美智さんら、いまや世界的にその作品が高額で取引されているアーティストを世に送り出した仕掛け人である著者の小山登美夫さんが、アートとお金の関係、つまりアートビジネスについて、分りやすく解説してくれたある意味では経済学の本ともいえる1冊。

小山登美夫さんは1963年、東京の人形町で酒屋を営む家の次男として誕生。芸術や絵画とはあまり縁のない家庭で育った小山さんが絵画に興味をもつきっかけとなったのは中学生の頃。美術の先生が有名な日本画家である奥村土牛さんの長男だと知り、図書館で奥村土牛の画集を手に取ったのが始まりでした。(もしかしたら、東京タワーの近くにある私立中学だろうか?)

そして当時のアメリカを代表するアーティストで「ネオ・ダダ」の旗手と呼ばれていたジャスパー・ジョーンズの作品に衝撃を受けました。なぜ衝撃を受けたのかといえば「わけが分からなかった」からです。この「わけが分からない」ものに遭遇したときに人が示す態度は2つに分かれると思います。無視するか、のめりこむか。もちろん小山さんは後者。現代アートにのめりこみ、美術展に通い続ける中学、高校時代を過ごします。

東京芸術大学芸術学科を卒業した後。画廊やギャラリーの勤務を経て、1996年に小山登美夫ギャラリーを開廊。奈良美智、村上隆をはじめとする同世代の日本アーティストの展覧会を企画・開催し、海外へも積極的に紹介し、現代日本のアートシーンを牽引する中心的ギャラリストとして国内はもとより海外でも注目を集めています。

今日はこの『現代アートビジネス』をご紹介しながら、アートな話題をいくつか紹介したいと思います。

2008/07/01

ローマ・オペラ座に中国人バレリーナ誕生

今日は日伊文化交流サロン「アッティコ」の協力でイタリアから旬な話題をお届けします。

北京オリンピックの開催まであと1ヶ月あまりとなりましたが、今ローマの人々の間ではオリンピック以上に盛り上がっている中国ネタがあります。それはローマ・オペラ座のバレエ団に初の中国人バレリーナが入団したこと。他のヨーロッパ諸国に比べ、イタリアの芸術界は外国人に対して敷居が高いと言われています。なかでも1880年からの歴史を誇り、マスカニーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』やプッチーニの『トスカ』の初演が行われた名門ローマ・オペラ座はローマ人の誇り。

敷居の高いローマ・オペラ座が中国人バレリーナを入団させたことについて、一部では将来の中国市場を意識しての抜擢、との見解も一部にありますが、過去に前例がまったくないなか、オペラ座への入団を果たした、バレリーナは素晴らしい、というのが多くのローマっ子の感想のようです。

シンデレラガールの名前はイタリア生まれの中国人ソフィア・シェン。まだ13歳という若さも話題になった理由のひとつです。彼女の両親はテルミニ駅の近くでホテルを経営しているそうですが、家族、親戚ともにバレエとはまったく関係なく、芸術一家でもないとのこと。本人の希望でバレエを始めたのは4歳のとき。私立のバレエ学校に通い始めたそうですが、勉強がおろそかになることを心配した両親は、彼女がバレエを続けることには反対していたようです。ところが10歳の頃、オペラ座バレエ学校のスカウトの目に止まり、入学することに。学校に通いながら、放課後にオペラ座のバレエ学校へ向かうという日が続いていたようです。そして、13歳になった時に正式入団が決定。5月には群舞で舞台デビューを果たしました。

ローマ初の中国人プリマドンナが誕生する日がいずれ訪れるのかもしれません。いずれにせよ、世界的にバレエやオペラから客足が遠のいている現在、関係者の努力はもちろん必要ですが、新しいスターの出現も待たれるところ。13歳のソフィア・シェンに期待するイタリアのバレエ関係者も多いのではないでしょうか。

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清水清

 テニス専門誌や幻の名雑誌といわれた『バッカス』の編集を経て、『エスクァイア』日本版編集部に。4年間を副編集長、5年間を編集長として在籍し、イタリアのスローフードやバリ、日本のBAR、沖縄、アートなど自分の趣味をそのまま誌面に反映させた特集に従事する。 『エスクァイア』退職後、4ヶ月間の石垣島生活を経て、現在に至る。座右の銘は「漂えど沈まず」。

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